苅谷剛彦『大衆教育社会のゆくえ』まとめ

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H.Takano @midwhite

麻生誠によれば、「エリートをエリートたらしめている一般的条件」には、卓越した能力、社会に対する奉仕精神、社会の指導者としての自覚(ノブレス・オブリージュ:高貴な身分に伴う道徳的義務)の3つがある。(苅谷剛彦『大衆教育社会のゆくえ』1995)

2012-03-09 13:36:30
H.Takano @midwhite

日本の大学生の文化的趣味についての調査によれば、クラシック音楽や展覧会など「高級文化」の嗜好と大学生の出身階層との間に明確な関係は見つからなかった。それどころか、カラオケや週刊誌など「大衆文化」的趣味を好む者が、出身階層によらず多数を占める。(苅谷剛彦『大衆教育社会』1995)

2012-03-09 14:02:47
H.Takano @midwhite

大衆教育社会は、階級社会のような高級文化に裏打ちされた「選良」という意味でのエリートとは異なる種類の「エリート」、「エリート意識の無いエリート」を生み出し、同時に本来の意味における「選良としてのエリート」の存在を否定したのではないだろうか。(苅谷剛彦『大衆教育社会』1995)

2012-03-09 14:05:46
H.Takano @midwhite

ジェンクスによれば、教育機会の平等化が図られたとしても、子どもの能力が既にその社会的背景に強い影響を受けてしまっている。これでは、たとえ教育の世界で能力主義に基づく機会均等を徹底しても、社会の平等化に向けて十分な成果を上げ得ない。(苅谷剛彦『大衆教育社会』1995)

2012-03-09 16:15:38
H.Takano @midwhite

家庭的背景が学校における成功に与える影響は、家庭や地域社会において伝達される文化の差異に起因する。それは物事の捉え方や価値観、態度や振る舞い、生活スタイル、そして言葉の使い方などが含まれる。これらの研究は、「文化的剥奪」説としてまとめられる。(苅谷剛彦『大衆教育社会』1995)

2012-03-09 16:31:14
H.Takano @midwhite

それらの理論の多くは、経済的な要因に着目して教育の量的拡大を説明しようとする。確かに一国の経済水準は、教育の需給双方を条件付ける。例えば社会や家庭が教育に支出するだけの富を蓄えていて、かつ高学歴者を労働力として十分に吸収できる経済力が必要だ。(苅谷剛彦『大衆教育社会』1995)

2012-03-11 12:54:18
H.Takano @midwhite

日本は学歴社会であると言われ、また一方では教育において子どもを能力によって差異的に扱うことを選別教育と見なす議論が支持を集めてきた。これらはいずれも能力主義と平等主義がテーマだが、興味深いことに他の先進諸国では殆ど見られない議論なのである。(苅谷剛彦『大衆教育社会』1995)

2012-03-11 13:01:39
H.Takano @midwhite

教育が社会的、経済的地位を決める社会は多い。しかしその学歴による決定の事実を問題視する議論がこれほど活発で、「学歴社会論」として一ジャンルを形成するほどの国は他に無い。その意味で、これは戦後の日本社会を特徴づける一つの社会認識であると言える。(苅谷剛彦『大衆教育社会』1995)

2012-03-11 13:08:57
H.Takano @midwhite

しかし、教育が直接的に職業的な能力に関わらずとも、高度な教育を受けた人々はより高い教養のため十分尊敬に値するとみる教養主義的な見方が強い社会もある。このような社会の場合は、そもそも学歴が職業的な実力と一致すべきという見方が強力な支持を得ない。(苅谷剛彦『大衆教育社会』1995)

2012-03-11 19:40:12
H.Takano @midwhite

例えばイギリスは教育教育を重視するため、高学歴者たちが職業に直接役立つ知識や技能を備えていないからといって、その地位を疑われることはあまり無い。というのも、そもそも教育と職業的な実力とが直接に関係すべきという期待自体がさほど強くないのである。(苅谷剛彦『大衆教育社会』1995)

2012-03-11 19:44:51
H.Takano @midwhite

日本と同等もしくはそれ以上に受験競争が激しいと言われる韓国でさえ、イギリスとは文脈が異なるものの、高学歴者は実学より虚学に価値を置く儒教的教養主義に守られている。それゆえ高学歴者への敬意は日本以上に強いと言われる。(苅谷剛彦『大衆教育社会』1995)

2012-03-11 19:49:32
H.Takano @midwhite

コリンズによれば、教育の拡大とは、社会の中でより優位な地位を占めようとする、様々な身分集団間の葛藤によって生じた。学校は、職業に役立つ技術や知識を教える場であるよりも、人種、民族、宗派などに代表される、各身分集団の文化を伝達する場所である。(苅谷剛彦『大衆教育社会』1995)

2012-03-11 19:58:02
H.Takano @midwhite

日本における学歴社会批判は、学歴取得以前の不平等を問題の射程から外し、「階層と教育」問題から私たちの目をそらしてきた。学歴取得後の学歴差が引き起こす不平等に焦点を当てる学歴社会の平等観は、学歴取得以前の不平等には殆ど目をむけていなかったのだ。(苅谷剛彦『大衆教育社会』1995)

2012-03-11 20:14:29
H.Takano @midwhite

欧米における「差別」(discrimination)とは「個人的にではなく、カテゴリカルに」差異的に扱うことである。そのため能力主義的教育への批判に「個人の能力によって差異的に扱うことは差別である」といった論理が通用するのは日本くらいである。(苅谷剛彦『大衆教育社会』1995)

2012-03-12 14:55:59
H.Takano @midwhite

能力主義教育への批判は、教育における競争条件の均質化、平準化を押し進めた。多様な評価基準や主観的な評価方法は、「差別感」を助長し公平性を欠くとして遠ざけられた。よって評価基準と方法の一元化が進行し、学力の一元的な序列化が強化された。(苅谷剛彦『大衆教育社会』1995)

2012-03-13 21:23:27
H.Takano @midwhite

アメリカの社会哲学者フィッシュキンによれば、平等に価値を置く自由主義体制は「能力を基準に人々の社会的地位を決定」「生まれによらず成功機会が平等」「子育てに関して家庭が外部の干渉から自律的」という3つの原則を同時に満たすことが非常に難しい。(苅谷剛彦『大衆教育社会』1995)

2012-03-13 22:18:49