「たくと国道」

つぶやき小説。
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@tsuchida_jaco

シーザーサラダとお子様ランチ。この客数なら、6分だなと、予想しながら時計を見て、もうすでに11時を回っていることに気づいた。 「パパ遅いな」と僕。 「遅いなー」とたく。 たくは店に入ってからずっと大人しくなっていた。おそらく友人の教育がいいのか、または単に疲れているのか。24

2012-03-24 17:23:57
@tsuchida_jaco

「たく、車見せてやれなくてごめんな」 「車見たよ!ビーム、ビーム!」 「そうか。走ってるのを見れたからな。眠ってる車見るよりはいいよな」 「うん」と頷くたく。 このとき僕のなかに変な期待がむくむくと顔をもたげはじめていることに気がついた。もしかすると、たくは。あいつとは。25

2012-03-24 17:32:24
@tsuchida_jaco

やはり子供だからと言って、すべてが親に似るわけではないのだ。最初、あの表情をたくから見出すことにのみ興味を持っていたものが、いまはなぜか、その表情を見せないでくれと願っている。ひとはずいぶん勝手だな、と、あいつならへへ、と笑いをつけ加えるセリフを頭の中でつぶやいた。26

2012-03-24 17:35:54
@tsuchida_jaco

たくの漂わせる雰囲気は友人のそれとはどことなく似てはいるが全く別物で、当たり前の事だけどたくは、たくでしかなかった。どうかその屈託のない笑顔をあの照れ笑いに侵されないようにと、僕が理不尽な祈りを捧げたとき、シーザーサラダとアンパンマンとお子様ランチが届いた。5分後の事だった。27

2012-03-24 17:43:54
@tsuchida_jaco

アンパンマンにひとしきり喜んだあと、たくはその歳にしてはフォークを器用に使い、旗の刺さったハンバーグを食べた。ハンバーグは乾燥しているのだが、肉のひとつひとつがしっかりとくっついていて、何か得体のしれないつなぎがたっぷり入っているんだなと思った。28

2012-03-24 17:47:18
@tsuchida_jaco

たくはそんなことは気にもせず、ハンバーグにかぶりついている。僕は間違えて口に入れてしまわないようにハンバーグの旗を外したあと、ようやく自分のサラダを口に運んだ。そして、驚いた。その、サラダは味気がまったくなかった。野菜の味だけでソースの味がないとかそういう意味ではない。29

2012-03-24 17:50:36
@tsuchida_jaco

味を形成するひとつひとつの分子がばらばらになってしまったように、どの味覚も無反応だった。レタスはふやけたダンボールのように歯に突き刺さり、トマトはカブト虫の幼虫のようにどろりと内容物を外に放出して、潰れた。茹で過ぎたたまごは、もはやウレタンに包まれた粘土のようだった。30

2012-03-24 17:55:21
@tsuchida_jaco

そんなあらかたを、ほとんど反射で喉の奧に飲み込んでしまったあと、わずかだったが、ちいさな刺激が舌を突いた。気が動転しているのと、混乱とではじめ舌の感覚の異常によるエラーと思ったが、違った。それは胡椒だった。シーザーサラダのかけられたこしょうの刺激を舌が感知したのだ。31

2012-03-24 18:00:46
@tsuchida_jaco

味覚はしっかりと生きていた。あまりの衝撃にわからなかったが、冷静に味わってみると、確かにそれらは味の要素を持っていた。トマトと、レタスの天然の甘み。そしてソースの酸味と、たまごのコク。それらを確かに感じ取ることはできるのだが、しかし普段に比べれば実に微々たるものだった。32

2012-03-24 18:04:45
@tsuchida_jaco

そうだ、と思った。あれはちいさい頃に高熱がでて身体の機能がぜんぶ駄目になってしまったような風邪をひいた日。駅のトイレの便器みたいに酷い鼻詰まりだった僕は夕食にだされたトマトのスープをまったく知覚できなかった。最初、高熱のせいだと思われたが、実は違った。それは匂いのせいだった。33

2012-03-24 18:13:48
@tsuchida_jaco

鼻詰まりによって嗅覚を失った僕は、食べものの味をも失ったのだった。完全に失うでもなく、僅かに味は感じ取れるものの、ほとんどないに等しいその経験から、食するということにおいての匂いの占める要素は大きいのだと実感したのだった。いま目の前の状況もまさしくその時に酷似していた。34

2012-03-24 18:17:56
@tsuchida_jaco

僕はたったいま嗅覚を失ったのだ。理由はまったくわからなかった。遠くのほうで、うちのなんか盆栽なんかはじめて、という年増主婦の声から、聴覚は無事だとわかる。たくが何か異常を察知して僕のほうを何度も見あげて様子を探っているのがわかることからも視覚も問題ないのだとわかった。34

2012-03-24 18:22:49
@tsuchida_jaco

なぜ嗅覚だけが突然、僕から逃げ去るようにして失われてしまったのか、僕にはまったくわからなかった。不思議そうに見上げるたくが、「どうしたの?風邪?」と訊いた。 「なんでもないよ、大丈夫。ちょっと胡椒が辛かったのさ」 そういうとたくは安心して再びハンバーグにかぶりついた。35

2012-03-24 18:25:35
@tsuchida_jaco

なぜ突然逃げ去るようにして嗅覚だけが失われてしまったのだろうか。今目の前にいるこの男児が嗅覚障害のある人間だということは偶然でしかないのだろうか。いや、そんなはずはない。そもそもいままでに、何の疾病もなく、知覚のみを失うなんてことは無かった。36

2012-03-24 18:32:57
@tsuchida_jaco

それがたくと出会い、そして彼と夕食を共にしたその日に、彼の障害とまったく同じ嗅覚の消失を被る。そんな偶然があるだろうか。僕はおそるおそる訊ねた。 「たく、いまお鼻の調子はどう?」37

2012-03-24 18:37:54
@tsuchida_jaco

「ひまわりは夏に植えることにしたんだよ。そうパパと決めたの」 「違うんだよ、たく、お花じゃなくて、お鼻。いま匂いはするかな?」 そう訊くとたくはあまりにもあっけらかんと「いまはオーケーな時だよ。美味しい匂い」と言った。 僕はなんとなしに仮説をたてはじめる。38

2012-03-24 18:41:06
@tsuchida_jaco

「それはよかった。ねえ、パパとか友達でもいいんだけど、時々似たようになるひとがいる?」 「似たようって?」 「つまり、匂いがしなくなっちゃうってことさ」 たくは少し頭を捻って考える素振りをした。 「うん、あるよ」39

2012-03-24 18:45:24
@tsuchida_jaco

たくは今までよりも小さな声で言った。夏の終わりの蝉の鳴き声みたいな物悲しさがそこにはあった。 「パパはそんなに言わないけど、友達はしょっちゅうお昼ごはんのときに、このごはん味しないって言ってる」 そうだ。もしそういうことがあっても、先生は子供達の嘘かいたずらだと思うだろう。40

2012-03-24 18:50:15
@tsuchida_jaco

僕は仮説を、確信へと組み替えていく。少しずつ、しかし確実に。 「そうか、みんなたくと同じなんだね」と、僕はいたって柔らかく言った。 たくは、肯定とも否定ともわからない頷きを一度して、ハンバーグに視線を戻した。その一連をアンパンマンは今にも飛び出しそうなポーズで眺めている。41

2012-03-24 18:55:36
@tsuchida_jaco

僕は味のしないシーザーサラダを、たくがお子様ランチを八分目くらい食べ終えたときに、友人から電話があった。時間は12時少し前だった。友人はすまない、中々抜けられなくて。二次会まで付き合わされちまったよ、と駅の改札を出るや否や謝った。たくはアンパンマンを片手にそれを真似した。42

2012-03-24 18:59:35
@tsuchida_jaco

帰りの電車は途中まで一緒だった。その間二人は次の週末の行き先に着いて話している。あたりには友人のように飲んでこれから家路につくサラリーマンでいっぱいで、車内は酒の匂いで満たされていた。ひさしぶりに嗅いだ匂いもこれか、と僕は溜め息をつく。43

2012-03-24 19:03:54
@tsuchida_jaco

僕の嗅覚はファミレスを出て、国道を駅に向かって歩いているときにはすでに戻っていた。何も匂いはなかったけれど、戻った嗅覚は、土産代わりに僕に冬の寒さの匂いをくれて、それで嗅覚が戻ったことに気づいた。 その風邪をひいて高熱を出した日。僕はスープの味のしないことを母親に言った。44

2012-03-24 19:08:24
@tsuchida_jaco

そのときに母は言ったのだ。 「ごめんね、塩を買ってきてなくて、それで入れてないの」 そして、あの照れ笑いを浮かべた。そういったものはすごい悲しかった。物事の本意ではなく、見当違いのことで謝られたときのあの、羞恥の笑顔。それが堪らなく嫌だった。それは高熱と共に嫌な記憶となった。45

2012-03-24 19:13:41
@tsuchida_jaco

たくはきっと気づいているに違いない。もしかしたら父親である友人も。たくが嗅覚はないが、ときたま人の嗅覚を借りて香りを嗅ぐという欲求を満たしているということを。しかしもしかするとそれは意図的にしているのではないかもしれない。神様のちょっとした悪戯なのかもしれない。46

2012-03-24 19:17:21
@tsuchida_jaco

だが、どちらにせよ僕が願うのは、お願いだからそのことで自己嫌悪に陥らないで欲しいということで、もちろん謝ったりなんかしないでもらいたい。特にあんな照れ笑いなんかくっつけて。 僕は別れ際、友人に何気なく、お前も匂いがしなくなるときがあるのかと訊ねた。47

2012-03-24 19:21:55