弁証法と形式論理の棲み分け

現実を分析するには弁証法的発想を使い、理論展開をするには形式論理に従った論理展開をする。この二つの論理は棲み分けることで正しい認識をもたらすのではないか。
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木下秀明 @khideaki

弁証法①渡邊芳之さん@ynabe39の「愛とは押し付けです」というツイートと、安冨歩さん@anminteiの「愛は自愛」という言葉とが、内容的には正反対のものを持っていることが気になった。このどちらにも共感するにもかかわらず、両者の主張は矛盾しているのだ。ここには弁証法がある。

2012-04-27 23:38:07
木下秀明 @khideaki

弁証法②弁証法は矛盾の分析であると三浦つとむさんは語っていた。この愛の矛盾は弁証法的な分析の対象になるものだろうか?弁証法論理に慣れていない人は、このような分析をするときに、どちらかの愛の定義が間違っていて否定することが論理の展開になると考えるのではないだろうか。それは形式論理だ

2012-04-27 23:43:06
木下秀明 @khideaki

弁証法③安冨さんは、自愛こそが愛の本当の姿であって、押しつけの愛は、自己愛から出発するハラスメントであると指摘している。つまりそれは否定されるべきものだと指摘しているわけだ。これは形式論理的展開だ。見事な弁証法を駆使する安冨さんがここでは形式論理で展開している。それはなぜか?

2012-04-27 23:45:27
木下秀明 @khideaki

弁証法④僕は安冨さんの論理展開が正しいと思い、それに共感している。この形式論理が正しいと判断している根拠は、安冨さんの論理展開が「愛は自愛である」という定義(概念)から出発しているからだ。概念から出発する論理展開においては形式論理で展開することが正しいのだ。弁証法では詭弁になる。

2012-04-27 23:48:28
木下秀明 @khideaki

弁証法⑤「愛は自愛である」という定義から出発すれば、自己愛からの展開であるハラスメントは愛という定義に反する。両立しない矛盾となるから形式論理ではその成立を言うことが出来ない。否定されるものとなる。つまり、「愛は自愛である」という前提を認めるなら、自己愛による押しつけは愛ではない

2012-04-27 23:50:22
木下秀明 @khideaki

弁証法⑥形式論理は、前提となることを認めるならば、結論を直接証明しなくても、その結論が正しいことを受け入れるという主張を持っている。つまり、それは現実観察とは関係がない。だから概念から出発する論理展開では、現実とは無関係であるから形式論理を安心して使うことが出来る。

2012-04-27 23:52:14
木下秀明 @khideaki

弁証法⑦では、押しつけも愛だと判断するのは、何が根拠となっているのか。それは、愛という言葉を現実に使う人々を観察することによって、現実から得られる結論になる。しかし現実の観察からは、押しつけではない愛も見つけることが出来る。現実の愛の観察では、押しつけとそうでないものとが両立する

2012-04-27 23:59:17
木下秀明 @khideaki

弁証法⑧現実の観察においては対立物が見つけられ、それを背負っている存在が発見できる。現実の愛は、押しつけとそうでないものと両方を背負っている、対立物が統一された弁証法的対象として発見される。安冨さんは、この両立する両者が、なぜ現実に存在するかを分析している。そこに弁証法がある。

2012-04-28 00:01:17
木下秀明 @khideaki

弁証法⑨自愛として観察される愛を分析すれば、そこには自分を大切にしているという特徴を見ることができる。逆に押しつけを愛だと思い込ませているものは、自己愛が観察でき、ハラスメントという現象を見つけることが出来る。この分析の結果は、愛を弁証法的に捉えることをきっかけとしてもたらされる

2012-04-28 00:03:27
木下秀明 @khideaki

弁証法⑩このように観察された「自愛」と「自己愛」を概念化し、それを出発点として形式論理を使うことが愛という現象の理論的把握になるのではないか。現実の愛は弁証法性を持っているので、そのままでは複雑すぎて判断が出来ない。つまり理論化することが出来ないのではないだろうか。

2012-04-28 00:05:57
木下秀明 @khideaki

弁証法⑪概念を立てて形式論理を使うことによって、現実がある程度単純化される。そうするとそこに構造を見ることができる。これは、単純化しない限り見えてこないのではないだろうか。現実の愛には自愛も自己愛も複雑に絡み合っているが、概念的な自愛から出発すれば本物の愛に近づけると考えられる。

2012-04-28 00:08:36
木下秀明 @khideaki

弁証法⑫本物の愛というのは空想的なもので概念として存在する。しかしその空想(嘘)は、夢として積極的に働きかけることの出来るものではないだろうか。ここに形式論理の重要性を僕は感じる。夢という空想のためにそれはある。そして現実を受け止めるには弁証法だ。この棲み分けが正しいのではないか

2012-04-28 00:11:53
木下秀明 @khideaki

弁証法⑬「憑依」と言葉を巡る議論が興味深かったのだが、これは用語の問題と言うよりは、弁証法と形式論理の問題ではないかという発想が浮かんできた。現実を弁証法的に捉えているときは憑依に対立する評価を持つものが見えてくるのではないだろうか。それはいいものも悪いものもある。対立物の統一だ

2012-04-28 00:14:36
木下秀明 @khideaki

弁証法⑭人を素晴らしい主体的行動に駆り立てる憑依もあれば、自立を奪いロボットのようにしてしまう憑依もあるのではないか。それが現実だ。しかし、それを分析して形式論理の出発点にするには、対立を排除した、定義の確定した言葉にする必要がある。そうでなければ形式論理に矛盾が持ち込まれる。

2012-04-28 00:16:50
木下秀明 @khideaki

弁証法⑮ある種の憑依を「ミメーシス」と語るのは、ロボットのようにしてしまう憑依を排除し、主体的に自分を高めようとする行為に結びつくものとして論理展開するためにそうするのではないか。形式論理の出発点にするには、確定した用語を定義しなければならない。それが学術用語になるのではないか。

2012-04-28 00:20:41
木下秀明 @khideaki

弁証法⑯理論展開というのは、すべて形式論理として展開されるのではないかと感じる。理論展開を弁証法的にやれば、そこには詭弁が入り込むのではないか。しかし現実を分析しようとすると、形式論理ではその複雑性を把握することが出来ない。現実の複雑性を受け止めるには弁証法を使うのではないか。

2012-04-28 00:23:07
木下秀明 @khideaki

弁証法⑰裁判の判決というものは、理論展開に準じるものではないかと思う。つまり形式論理に従うべきで、弁証法的な観点が入ってはいけないと思う。小沢裁判の判決についても、ある前提を認めるならば無罪と結論するしかないのであって、有罪の可能性が張り付いているという弁証法的なものにはならない

2012-04-28 00:31:48
木下秀明 @khideaki

弁証法⑱現実の小沢さんの行動を見れば、その細部まですべてを再現することが出来ないので、分からない部分に対しては対立する評価を背負う可能性がある。しかしそれは現実が持つ弁証法性であって、ある前提だけを認めて論理展開する判決においては、形式論理によって結論すべきではないかと思う。

2012-04-28 00:36:10