久里 洋二氏、父の命日回想

 四月二十九日が命日だそうです。 続きを読む
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久里洋二 @yojikuri

今日は父が亡くなった日です。今まで、父の亡くなった日は、ほとんど記憶になかったな。気がついたら一か月も通り越していた。それも何十年も忘れていた。母が亡くなった日は、必ず、お祈りをしていたが、何故、父親は疎遠なのか。取っ組みあい大喧嘩をして、ボクは東京に逃げてきたからかもしれない。

2012-04-20 10:24:16
久里洋二 @yojikuri

父と喧嘩をしなかったら、東京に行くこともなく地方公務員になって一生を終わったもしれない。戦後間もない22年、田舎の本屋で見ていた雑誌。それに出ている漫画を見て、漫画家もいいなと思ったです。自分の将来なんて考えてもいなかったし、敗戦で父も兄も元気がなく、その日暮らしでやっとでした。

2012-04-21 10:55:39
久里洋二 @yojikuri

軍人たった父は戦後、B級戦犯だったので、公職には勤められなかった。父の戦友は戦後、GHQが日本の警官と一緒にMPが来て、連行され、そのままフイリッピンで戦犯のうえ、死刑になった。父はそれを知って、日々、おびえてていた。父は押入れから行李を出して、庭に作った防空壕で燃せと言った。

2012-04-23 10:40:21
久里洋二 @yojikuri

防空壕で莫大の記録写真を燃した。中国での残虐写真。生首のさらし台。日本兵の脱走した自殺写真。どれもこれも、眼をそらした。約一週間かかって、すべてを燃したが、父は何かおびえていた。案の定、ある日、ジ-プに乗ったMPと日本警官二人が見えて、父は着たままの服装でジ-プに乗せられて去った

2012-04-24 10:53:37
久里洋二 @yojikuri

父は終戦の時は和歌山の軍隊に所属していた。MPに連行されるほど悪いことはしていなかったと思う。中国人に対する残虐行為はしていないと思う。父は中国には行ってないからだ。それなのに、何故残虐写真を多く持っていたかはわからない。ボクの生まれた鯖江市はもともと36連隊の軍隊の町なのだ。

2012-04-25 10:35:07
久里洋二 @yojikuri

中国に出陣したのは36連隊の脇坂次郎大佐の率いる軍隊だった。南京の不落の城を破って一番のりをしたのは36連隊だったという。当時、相当の残虐な行為をしたと思う。連隊長の脇沢大佐には僕と同じ同級生がいたな。大佐の息子だったので、すごく威張っていたな。もし、生きていたら逢いたいです。

2012-04-26 11:43:24
久里洋二 @yojikuri

父がMPに連行さて、、またMPが証拠写真を没収に来るのではないかと家族は恐れていたが、母は父の持ち物を持ち出して、中身を調べ、証拠写真を探したが、一枚も無かった。すべてボクが防空壕で完全に燃してしまったのだ。父は何の罪で連行されたのか判らなかった。

2012-04-28 10:32:19
久里洋二 @yojikuri

父がもし絞死刑だったら、うちの家族に悲運の運命になると思っていた。母は日々、仏壇で祈っていたが、ボクは仏の力なんてないなと思っていた。でも半月で父は無事に帰って来た。父はポツリと和歌山の事件のことだったと言っていた。和歌山が大空襲の時、撃墜されたB29のアメリカ兵のことだった。

2012-04-29 11:20:24