夷陵の戦いについて

劉備最後の戦い。 この戦いを根拠に劉備は批判されることが多いが、実際のところ、その実態は不明である。 この夷陵の戦いについて、劉備の思惑が何であったのかを考えてみた
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Jominian @Jominian

黄権が降った際、南郡太守史郃を含む三百十八人がいた。その内、列侯となったのが四十二人、将軍や郎将となったのが百余人。彼らが皆、魏に降って出世したとして、それ以前は百人の長程度だったとしても、黄権の軍は万単位の規模だったことになる。相当数が割かれていたはずだ

2012-05-01 17:55:22
Jominian @Jominian

仮に1万人だとすれば、穀物だけで日に10t程度必要だ。また、険阻で二列程度の隊列でしか進めないとすれば、その隊列は短くても10kmほどになってしまう。徴発を繰り返しながら進むにしても、なかなか困難だ。むじんさんの言うように、先遣隊が巴夷の集落を周り、物資を集めながら進むことになる

2012-05-01 18:00:04
Jominian @Jominian

現実的には、沮水を使う方法がある。沮水は漢中房陵県に出て、南へと流れ、臨沮を経て長江に注ぐ川だ。房陵の辺りの異民族と話をつけ、それらの協力を仰ぎ、沮水を用いて臨沮周辺へと物資を集める。そして、そのまま南下する。臨沮までの道を切り開く軍と、房陵へと進む軍が必要になる

2012-05-01 18:06:38
Jominian @Jominian

それらを実施した上で、戦力を集結して南下するには、やはり準備も含めて時間が必要だ。険阻であること、黄権の軍の規模が大きいことを考えれば、単純な行軍でも1ヶ月くらい掛かる経路だ。準備を含め、もたつき過ぎて6月には間に合わなかったのだろう

2012-05-01 18:09:12
Jominian @Jominian

益州でも漢中でもそうだったように、劉備は策を弄するのが好きだ。特に、敵主力を何らかの方法で釘付けにしておき、その間に大胆な迂回を行うというのは、劉備の勝ちパターンだ。夷陵でもその方針に切り替えた可能性は大いにある

2012-05-01 18:11:55
Jominian @Jominian

さて、夷陵については一応の決着を見た。劉備らしい、という点では、劉備らしい戦いだった。次に何を考えるか、だな

2012-05-01 19:47:00
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