三国志 官渡の戦い

官渡の戦いは、『三国志』の文面から受ける印象とは大幅に異なる真実を史書に垣間見せている。 戦いはどのように推移したのか、曹操は袁紹はどのように戦ったのか、劉備の位置付けは、于禁の延津における意味とは、そして勝敗の真因はなんだったのか。
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yunishio @yunishio

王渾さんにしてもそうなんだけど、伝記を読むだけでは戦術の巧拙が読みきれない。白馬延津の戦いみたいに負けてるのに勝ったふうな書き方がされてることもある。地図上に軌跡を落としこまなければ事実が見えてこない。

2011-10-08 10:07:27
yunishio @yunishio

袁紹は田豊の進言を斥けて出兵しませんでした、曹操の読みどおりです、とか書いてて、じつは出兵してた、とか、ざらにあるから油断がならないw

2011-10-08 10:23:35
yunishio @yunishio

白馬延津の戦いで小戦闘の勝利を強調して作戦の失敗を隠蔽してるところもほほえましい。大本営発表はかならずしもウソを言ってるわけじゃないんだよ。不都合な事実にふれないことで、好ましいことだけが起きているように思わせている。なにを言っているかだけじゃなく、なにを言っていないかに注意。

2011-10-08 10:28:45
ユーリ @Juli_Klein

@yunishio 田豊や沮授を排除したことと官渡で敗北したことに何の関係もないのに、無根拠に「田豊・沮授の言うことを聞いていれば勝てた」と主張してる人も多い気がしますね。

2011-10-08 10:33:17
yunishio @yunishio

曹操と袁紹は 200 年にいきなり交戦が始まったように書かれ、199 年にもその予兆が示されているが、袁紹の南下は 198 年に始まっているはず。孔融と荀彧の論議もそのときのこと。2人の分析は孔融のほうに分がある。というか荀彧のは無責任な希望的観測、強がりにすぎないよ。

2011-10-08 10:34:00
yunishio @yunishio

@Juli_Klein たしかに。白馬は田豊の進言どおりに袁紹が戦ってるけど、沮授のほうは基本的な戦略があまりよく見えないですね。前後して進言が矛盾しているようにも見えます。

2011-10-08 10:40:25
ユーリ @Juli_Klein

@yunishio 沮授の具体的な戦略も、それに対する曹操のリアクションも見えてこない以上、「沮授に従わなかった」「負けた」がそれぞれ事実でも「沮授に従っていれば勝てた」とは言えないですのにね。さらにそれから脚色や印象操作を差っ引くことを考えると……。

2011-10-08 10:45:39
Jominian @Jominian

@yunishio 陳琳の檄文で既に宣戦布告してますしね。袁紹本人は公孫サン討伐でしばらく動けなかったものの、様々な介入をしてますし。袁紹自身、公孫サン討伐が完了するや否や、すぐさま軍を南下させてます。これを動いてないと見るのは無理があり、荀イクの進言は正しくないですね。

2011-10-08 12:32:35
Jominian @Jominian

白馬と延津は、被害の多少はどうあれ、曹操の負けだよ。要地を放棄して後退してるのだから。初めは黄河の線で守るつもりだった。それが出来なかったから後退した。白馬や延津での活躍は、決定的敗北を回避する為に立ち回った結果に過ぎない。曹操を褒めるなら起点はそこにすべき。

2011-10-08 12:40:27
Jominian @Jominian

曹操は白馬と延津を固めれば、とりあえず足りると思った。だが、現実には、袁紹はもっと広く軍を展開し、守りの薄いところから黄河を渡り軍を浸透させてきた。こんな状況では、白馬と延津を固守しても意味はない。だから、最高の状態での撤退を図ろうとした。

2011-10-08 12:43:20
Jominian @Jominian

そこで活躍したのが于禁。西へと展開していた袁紹の軍を急襲し、その前進を遅滞させ、なんとか体勢を整える時間を作った。この時の于禁の働きは、白馬・延津での曹操の働きに劣らない

2011-10-08 12:45:59
Jominian @Jominian

袁紹は彼我を比較し、我が軍に有利な点を熟知し、それを最大限に発揮させるやり方をした。この時点の袁紹に落ち度はない。

2011-10-08 12:47:46
Jominian @Jominian

最終的に負けたから批判されるけど、袁紹とその幕僚は優秀だよ。

2011-10-08 12:48:47
Jominian @Jominian

しかし、こうして記憶だけで語っていると、時系列とか不安になるな。于禁(と楽進)が西へと軍を進めたのは、白馬と延津から退き、曹操軍全体が撤退を始めた時だよなあ?

2011-10-08 13:18:38
Jominian @Jominian

「演義の反動で云々」という説明をされるわりに、諸葛亮含めた蜀批判が横行し、袁紹とかは最近まで顧みられなかった。この事象は、袁紹を過少に評価する曹操の幕僚に似ている。曹操を賛美する者は、その幕僚に似てくるという事か?

2011-10-08 13:26:22
Jominian @Jominian

曹操は確かに偉大だが、その偉大さに目が眩むと、他者はおろか曹操すらも見誤る。歴史によってか現実にかの違いはあれ、現代の曹操信者も、曹操の幕僚も、同じように眼を眩まされていたのだろう。

2011-10-08 13:31:57
yunishio @yunishio

@Jominian そうなんですよね。背後に公孫瓚の脅威を控えたはずながら、なぜ 198 年の時点で宣戦布告できたのか、それまで表面的には友好関係を築きながら、なぜこのとき決裂したのか、そこから当時の情勢が逆算できそうな気がしますね。

2011-10-08 15:08:36
yunishio @yunishio

防衛ラインが破綻したあと、迅速に建て直したのは流石に曹操!って感じだけど、いくら撤退戦が巧みだったといっても負けは負け。RT @Jominian 白馬と延津は、被害の多少はどうあれ、曹操の負けだよ。要地を放棄して後退してるのだから。初めは黄河の線で守るつもりだった。

2011-10-08 15:11:26
yunishio @yunishio

于禁の延津から河内への転進は「島津の退き口」だと思うな。でなきゃ延津ほどの重要拠点を放棄する理由がないもん。維持できなくなったから捨てたんだよ。しかもその時点では敵の包囲陣は完成していたので敵中突破せざるをえなかった。逃げ遅れ?判断ミスかもしれない。

2011-10-08 15:27:25
yunishio @yunishio

島津義弘は関ヶ原の戦いにおいて形勢を観望して逃げおくれ、敵中(井伊だったかな)を突破して戦線を離脱した。もちろんこんなのはめちゃくちゃな行動であって、島津豊久、長寿院盛淳らが討死。徳川を震えあがらせたなんて嘘っぱちだよ。たんなる逃げおくれ。完全に判断ミス。

2011-10-08 15:34:03
yunishio @yunishio

官渡の戦いのときの河内郡の状況がよく分からないんだよなあ。于禁が延津を放棄して河内に入ったはずだが、その後の記述はなし。魏种の動向も知れず(というか魏种は太守に就任したという以上のことが書かれてない)。たぶん黄河北岸は袁軍がすっかり押さえてしまい、曹軍に放棄されたんだろうなあ。

2011-10-08 16:01:41
yunishio @yunishio

官渡の戦いで、河内郡のみならず、兖予諸郡の状況すら分からないのは、これらの地域が袁軍に寝返っていたことを示している。曹操が維持できたのはほぼ官渡以南だけ。あとは陽安、鄄城、離狐、泰山、広陵、長安くらいか。臧霸は交戦の記録がなく、おそらく中立。

2011-10-08 16:14:44
Jominian @Jominian

@yunishio なるほど。確かに、黄河南岸には既に広範に袁紹軍が展開してましたからね。曹操が退いても延津に居たとは考え難いので、曹操の延津放棄と時を同じくして西進し、遅滞行動に移ったと見てましたが。例えば、北岸をずっと保持していたなら、逃げ遅れたとも考えられます。

2011-10-08 17:34:31
Jominian @Jominian

自分のブログを読み直すと、于禁は曹操が到着した段階で延津固守の任務を解除され、西方の救援に向かったと解釈していた。すっかり忘れてたね。つまり、曹操は白馬へ赴こうとした時点で全面撤退を行おうとしていたわけだ。

2011-10-08 18:20:10
Jominian @Jominian

曹操はよく見積もりを誤って窮地に立たされる。でも、臨機応変な判断や大胆な行動で、いつも切り抜けている。だから何だか必要以上に凄く見えてしまう。

2011-10-08 18:23:16
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