三国志 官渡の戦い

官渡の戦いは、『三国志』の文面から受ける印象とは大幅に異なる真実を史書に垣間見せている。 戦いはどのように推移したのか、曹操は袁紹はどのように戦ったのか、劉備の位置付けは、于禁の延津における意味とは、そして勝敗の真因はなんだったのか。
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Jominian @Jominian

河川が防御に有利なのは、戦術的な面もさることながら、戦略的にも敵の交通を限定させるという事がある。徴兵制による兵力の増大がもたらされる前は、兵で国境を満たす事が出来ないため、広い平地では、戦略的な突破を防ぐ事が出来ない。これでは彼我の戦力差埋めがたい

2011-10-08 18:28:55
Jominian @Jominian

黄河を防衛ラインとする事で、敵の進路を幾つかの津に限定できる。曹操が黄河の線を保持しようとした理由はそこにある。だが、黄河の線は早々に放棄せざるを得なくなった。これによって、曹操は彼我の兵力差をカバーする手段を奪われていく事になる。

2011-10-08 18:31:51
yunishio @yunishio

@Jominian おそらく直前の陽動作戦で延津方面を担ったのが于禁らだと考えられます。白馬を失陥して曹操軍が南岸を急遽放棄したので取り残されたのでしょう。南岸への渡河は時間がかかるので、陸路を使って河内へ逃走したのだと思います。

2011-10-08 18:38:42
Jominian @Jominian

@yunishio 白馬救援の時点では、曹操は黄河の線を維持しようとしていたわけですか?それにしては、あまりにも愚かと言うか、白馬放棄の判断が早過ぎる上、于禁らへの部署もお粗末になってしまいます。

2011-10-08 18:44:21
yunishio @yunishio

@Jominian いったんは白馬を回復して、北岸に渡り袁紹の背後に出、ふたたび延津と黎陽の両面から袁軍を翻弄しようとしたものの、白馬に劉備、文醜らの増援があったため撤退し、延津には連絡が遅れたんじゃないかなあと思うんです。白馬放棄の判断理由が分からないのが厳しいです。

2011-10-08 19:03:15
yunishio @yunishio

曹操は白馬を放棄したあとも、いったん延津で踏みとどまろうと試みている。文醜らの急襲にそれもままならず敗走してるけど。文醜を討ちとったのは運がよかったが、戦略の劣勢をくつがえすにはいたらず。

2011-10-08 19:07:43
yunishio @yunishio

曹操を延津で破ったのは劉備(文醜も)。しかし劉備は白馬攻囲に参加していない。参加したのは顔良、郭図、淳于瓊とある。劉備ほどの大物の客将が参加していたら記述されないはずがない。劉備が白馬に渡ったのは、曹操が白馬を解放したあとのことと分かる。劉備が来たから曹操は逃げた。

2011-10-08 19:20:32
Jominian @Jominian

@yunishio またしても劉備wwwしかし、延津だけ守っても片手落ちな感じがしますね。まあ、既に西方から浸透を許しているから、黄河の線でどうにかしようという目論見はぶっ飛んでるわけですが

2011-10-08 19:30:20
yunishio @yunishio

@Jominian 延津の戦いでは、劉備の存在が見過ごされがちですけど、北岸の袁紹、南岸の劉備と2トップの一角を占めていたらしいのは興味ぶかいですよね。しかも延津は曹操を追撃する必要から、機動性の高さを買われたらしいことも。長阪の戦いは、延津の裏返しなんですよ。

2011-10-08 19:36:35
yunishio @yunishio

劉備は荊州の民衆を引きつれて江陵に向かい、曹操軍の追撃に脅かされた。曹操は白馬の民衆を引きつれて延津に下がり、劉備軍の追撃に脅かされた。相似形ぃ~。もちろん民衆を連れて鈍重なほうがどちらも戦いに負けている。

2011-10-08 19:39:28
Jominian @Jominian

@yunishio 実際、白馬を回復する事が出来なかったんだと思いますよ。顔良を斬って劉延を救えても、白馬の維持を可能にするだけの戦力が曹操になかったんでしょう。袁紹は、この時点で、白馬と河内から渡河できていますから。袁紹の本隊も黎陽から動いていないはず

2011-10-08 19:40:24
yunishio @yunishio

@Jominian なるほど、そうでしたか。袁紹もまだ黎陽ですね。袁軍本隊の進攻ルートが意外にはっきりしない感じがあります。程昱伝の記述などを参考にすると黎陽から白馬津を渡った可能性が高いでしょうか。

2011-10-08 19:44:50
Jominian @Jominian

@yunishio この戦役では、袁紹は終始彼我の戦力差を生かす戦略を取り続けています。曹操による陽動も、兵を分けたとあるのみで袁紹本隊が動いたとは書いてません。そもそも、曹操が延津を渡る事が、袁紹の背後に出る事につながりません。これは、分散した袁紹軍の中央に出る動きと見ています

2011-10-08 19:50:33
yunishio @yunishio

袁紹が黄河を渡ったルートがよく分からんのだよ。沮授が「延津に留まれ」と言っているので延津から渡ったように個人的には思っているのだが、ほかの箇所の記述では曖昧で、白馬津から渡ったようにも理解できる。どっちなんだ。

2011-10-08 19:50:55
Jominian @Jominian

@yunishio そして、仰る通り、程イク伝等を見ても、袁紹の本命が白馬からの渡河だったように感じます。当初、中央で津を守っていた于禁が固かったので、大きく翼を広げて包囲する態勢を取った。そして、自身は最も戦力を集中しやすい左翼の指揮を執っていたのだと思います

2011-10-08 19:54:22
yunishio @yunishio

@Jominian 延津は黄河の南北両岸が要塞化されていて于禁らは北岸の要塞を守っていたわけですが、曹軍が延津北岸に入ったのはいつごろでしょうか。199 年、眭固が滅ぼされて魏种が河内太守になったとき、河内方面から冀州に睨みをきかせる形で延津に進出したものと思います。

2011-10-08 19:58:56
Jominian @Jominian

@yunishio 沮授の発言は、必ずしも延津で渡河した事を示していないように思います。白馬から渡河したとしても、陽武へ向かう際に延津南岸を通過しますし、丁度展開した戦力の中央に位置し、官渡を包囲する際の司令所としては適当な場所です。

2011-10-08 20:00:13
Jominian @Jominian

@yunishio 延津進出は、私もその頃かと思います

2011-10-08 20:02:33
yunishio @yunishio

@Jominian 延津のほうが河内に地続きであるぶん敵地には進出しやすいので、そのまま直進すれば、袁軍がかりに白馬津を渡りきったなら背後を断つ形になります。それなら兵力差があるとしても、袁軍にとって看過できない脅威になるのではないでしょうか。

2011-10-08 20:03:11
Jominian @Jominian

ちょっと官渡の記述をもう一度洗い直さなきゃならないな。曖昧な記憶で語っているので

2011-10-08 20:03:28
Jominian @Jominian

@yunishio それは、真っ直ぐ冀州に出るという事ですか?それとも黎陽に向かうという事でしょうか?

2011-10-08 20:09:32
yunishio @yunishio

@Jominian それは、どちらもアリだと思います。この時点ではとにかく白馬の急を救う必要がありますので、背後を攪乱して攻囲軍を動揺させられれば上出来です。劉延が持ちこたえられるなら鄴を窺い、劉延が危うければ黎陽を襲うくらいのイメージでいいと思います。飽くまで白馬解放が目的。

2011-10-08 20:15:36
yunishio @yunishio

@Jominian 『献帝伝』がどこまで信用できるかにかかわってくるんですが、沮授は万が一のとき退路に困るので本軍に黄河を渡らせるなと言っているので、延津の北岸に留まらせようとしているはずなんです。関羽と顔良が戦った時点では黎陽にいたとしても、その後、延津に移ったように見えます。

2011-10-08 20:21:05
Jominian @Jominian

@yunishio ああ、白馬から袁紹軍が渡河を完了していたら、という仮定でしたね。渡河していない実際をベースに考えてしまった。確かに、大部分を渡河させていたなら、延津渡河は背後に出る態勢を示せます。そして、この時点の曹操に袁紹軍の渡河状況は分からなかった

2011-10-08 20:21:18
Jominian @Jominian

@yunishio む。私の認識と違いますね。家に着いたら当該箇所を当たってみます。袁紹が延津に移動していたなら、また何か考えねばなりません

2011-10-08 20:27:56
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