劉備が漢中攻略に乗り出した時、その成否を諮問された周羣は「土地は手に入るが、人は手に入らない」と答えた。結果はその通りになったわけだが、これは予言とは言い難い。当時の漢中が曹操による徙民で人の居ない地になっていた事を知っていれば、誰でも言える事だからだ。
2011-11-04 20:43:39この陽平への駐屯は、一般的には陽平関の占拠を伴うと見られている。しかし、それは不自然である。定軍山の攻防に先立ち、陽平周辺でも戦闘が行われているが、劉備が陽平関を押さえていたなら、それは当然、劉備が東或いは北にあって対峙したものとなる。
2011-11-04 20:53:22さて、その上で定軍山の攻防に繋がったのなら、劉備は当然、定軍山の北側か西側に兵を展開するはずだ。軍を東へと延ばそうとすれば連絡線が危険に晒される事となり、武都が制圧されている状況から言って、非常に危険になるからだ。
2011-11-04 20:57:18また、定軍山の攻防の後、張郃らは何故か何の抵抗も無いまま陽平へと軍を還している。そして、出撃していなかった郭淮と陽平で合流してもいる。この帰還の後、劉備が陽平に殺到し、郭淮らはそれと対峙するが、それは沔水を挟んだものだった。
2011-11-04 21:00:29戦況の推移を鑑みれば、劉備は陽平関を手に入れてなどいない事が分かる。「陽平関を奪った後、放棄したのだ」などと言う人も居るが、馬鹿馬鹿しい話である。第一、劉備が陽平「関」を攻撃した記述も、そこに入った記述も存在しない
2011-11-04 21:05:25さて、話を戻す。劉備は下弁に別働隊を派遣した。前後の状況の違いを考えると、夏侯淵らはこの時に陽平関へと入っている。恐らく、武都の曹洪を支援するためだ。そしてその隙に、劉備は関城より定軍山の南に抜け、漢中へと入った。
2011-11-04 21:11:15この曹操との攻防は、内容がいまいち分からないのだ。分かっているのは、劉備が高地に陣取り、敢えて戦いを挑まなかった、という事くらい。
2011-11-04 21:31:28さて、劉備陣取ったのは、恐らく定軍山から陽平の南に伸びる山地だろう。北に展開する曹操軍と、南の山地に拠る劉備軍と言った感じ。
2011-11-04 21:37:04この城は、後に諸葛亮が築く西楽城の側を通り、四川へと続く谷を流れる川に沿って築かれている。そしてその道は、劉備が漢中へ入る際に通った道だ。つまり黄忠は、夏侯淵を斬った後は、連絡線の防護に回されたのだ http://t.co/I7oE323f
2011-11-04 21:41:54漢中での攻防における黄忠の位置を、他の記述と繋いで膨らませてなんかよく分からないけどもっともらしい展開を考えるのは、やはり私の役目なのか?
2011-11-05 02:20:28@Jominian 黄忠は夏侯淵を高地から急襲したようですが、劉備本営から分遣された小規模な軍なのか、あるいは夏侯淵を拘束するために展開していた別軍なのか、どっちなんでしょうか?
2011-11-05 02:27:31@sweets_street そこはよく分かりませんね。定軍山の攻防も分からない事が多いのです。走馬谷、南囲、東囲の位置が明らかになれば多少は分かるのですが。ただ、走馬谷を焼き、夏侯淵が軍を動かした所で、法正の進言により黄忠を動かしてますので、黄忠の役目は元から敵軍の急襲かと
2011-11-05 02:50:41@Jominian ということは、黄忠の戦力はそれほど大規模ではなかったということですね。伝を読む限りでは、張郃攻撃と夏侯淵攻撃の両方を劉備が指揮しているように思えます。劉備一人で戦局を把握して、コントロールできる範囲の戦いだったとしたら、本当に局地戦ですね
2011-11-05 03:00:05@sweets_street 定軍山周辺の戦闘なので、正面は数kmと言った所でしょう。劉備が戦局を把握しているのは、恐らく高地に拠っているからです。また、種々の記述から魏軍が谷に居た事が分かり、そもそも劉備は有利な地形を占めています。
2011-11-05 03:05:02定軍山とその西の山地の間は谷のようになっている。恐らくそこが走馬谷なんじゃないかと思う。その走馬谷を抜けると、今度は西南に向って容裘谷があり、これが関城まで伸びている。
2011-11-05 03:07:24