斎藤清二先生による「『あ!萌え』の構造」 その1

斎藤清二先生 @SaitoSeiji による連続ツイート、「『あ!萌え』の構造」のまとめ、その1です。 その2 http://togetter.com/li/318636
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斎藤清二 @SaitoSeiji

⑦「○○なんて、結局はただの△△に過ぎないのさ」 「○○が好きだなんて、お前は単なる■■に過ぎないのさ」 (○○は、萌えの対象=例えば眼鏡をかけた美少女)

2012-04-29 23:04:33
斎藤清二 @SaitoSeiji

⑧一般に、△△や■■は、明らかに「価値の引き下げ」をもたらすような表現が採用される。例えば「未熟」「現実逃避」「幻想」「コンプレックスの裏返し」「ナルシズム」「変人」「変○(表現自粛)」・・など、などである。もちろん、もっと難解な専門用語や学術用語が持ち出されることもある。

2012-04-29 23:06:55
斎藤清二 @SaitoSeiji

⑨私は上記のような言説を「還元主義的価値の引き下げ」と呼びたいと思う。要するに最近の言い方を借りるとdisるということだ。これは、熟考したり、表現したりする当事者を傷つけ、意欲をそぐ。自分にとってかけがえがない大切なものを否定されることは自分自身を否定されることに等しい。

2012-04-29 23:10:13
斎藤清二 @SaitoSeiji

⑩こういう言い方をされるのが嫌さに、私達は口をつぐんでしまうのだ。まず、他者に対しても、自分に対してもこのような「還元主義的価値の引き下げ」を全面的に排除することが必要だ。これなしには、このような繊細な問題について熟考や議論を続けることはできない。

2012-04-29 23:12:13
斎藤清二 @SaitoSeiji

⑪次に、前節でも触れたように、熟考の対象とする現象をとりあえず、どういうことばで呼ぶかが難しいという問題がある。前節ではこれを「萌え」ということばで呼ぼうとしたが、それでさえも、すでに先入観によって汚染されていることが明らかである。

2012-04-29 23:15:19
斎藤清二 @SaitoSeiji

⑫つまり「萌え」ということばそのものが、自動的に何らかの価値判断を含む意味づけを誘発してしまい、正当な、中立的な議論を困難にするのだ。これを回避するためには、できるかぎり先入観を誘発しない、中立的なことばを用いる必要があるが、これは厳密に言えば不可能である。

2012-04-29 23:16:48
斎藤清二 @SaitoSeiji

⑬例えことば自体としては、全く無意味な新造語をつくり出したとしても、それは完全に価値フリーにはならないだろう。したがって、ここでは妥協が必要である。完全に中立的なことばは無理でも、何かに決めなければ議論は難しい。それを試みなければならない。(次回に続く・・かな?)

2012-04-29 23:24:28
斎藤清二 @SaitoSeiji

「『あ!萌え』の構造」をテーマとする連続ツイートの第3弾をお届けします。とにかくやたら理屈っぽい話ばかりで、さっぱり「萌える」ような内容では無くて申し訳ありませんが、興味のある方のみお付き合い願います。

2012-05-02 20:26:08
斎藤清二 @SaitoSeiji

①前回も書いたように、「萌え(仮題)」について語ろうとする時には、とても複雑な感情が喚起される。もちろん「語ろう」とさえしないときでも、「萌え(仮題)」という体験は、それ自体が、複雑な感情体験である。もちろん、感情体験というのは、常に身体を巻き込むものである。

2012-05-02 20:27:23
斎藤清二 @SaitoSeiji

②「コンプレックス」とは本来、このような「複雑な感情が絡まり合ったひとかたまり」くらいを意味する言葉である。したがって、この意味でコンプレックスという言葉が使われるならば、「萌え(仮題)」と「コンプレックス」という概念にはかなり密接な関係があると言ってよいだろう。

2012-05-02 20:30:26
斎藤清二 @SaitoSeiji

③しかし、一般には「○○コンプレックス」という言葉には、好ましくない価値判断がまとわりついており、これらの「○○コンプレックス」といった既成概念に「萌え(仮題)」体験を還元してしまうことについては、本ツイートではできる限り禁欲的な姿勢を堅持したいと思う。

2012-05-02 20:31:37
斎藤清二 @SaitoSeiji

④そこで、本来的に複雑な感情を喚起する現象には、できる限り無色透明な(つまり味も素っ気もない)名称を仮に与えておくことが一つの戦略である。。このような「概念化」とは、一種の「消毒」であって、もともとの「それ」が持つ本質的な生き生きとした躍動を消し去ってしまうことになる。

2012-05-02 20:33:45
斎藤清二 @SaitoSeiji

⑤しかし、ここではあえてそのようなうんざりするような作業を実行した上で、その後にもう一度、生き生きした感情をそれに結びつけていくための様々な工夫をしてみたい。あくまでもその目的は、それを扱いやすくするためである。前置きが長くなりすぎたので、実際に無味乾燥な命名をしてみたいと思う。

2012-05-02 20:35:54
斎藤清二 @SaitoSeiji

⑥私達が何かに対して「魅惑」を真から感じるという現象、それ自体を、一般的に、Actually Fascinating Phenomenon(AFP)と仮に命名しておく(医療関係者の諸君、くれぐれも脱力しないようにw)。

2012-05-02 20:39:04
斎藤清二 @SaitoSeiji

⑦AFPとは「現象」であるから、私達が「経験」するものであり、私達に「立ち現れて来る」ものであり、私達に「認識される」ものである。もちろん「経験」「立ち現れ=顕現」「認識」という言葉は、少しずつ意味が異なっているが、「AFP」に近接して周りを取り囲んでいるような概念群と言える。

2012-05-02 20:41:14
斎藤清二 @SaitoSeiji

⑧さて、AFPを認識のプロセスと考える場合、以前にも書いたように、この現象を構成するものとして「認識する主体」「認識される対象」「魅惑という認識体験をもたらす仮想されるもの(本態)」の三要素を考えることができる。これらを別々に考察した上で、それらの相互関係を考えていくことにする。

2012-05-02 20:43:34
斎藤清二 @SaitoSeiji

⑨そこで、この第三の一番正体不明の「魅惑という認識体験をもたらす仮想されるもの(本態)」にも名前を付けておきたいと思う。これを、仮にFascinating Actuality (FA)=「魅惑実在性」と名付ける。

2012-05-02 20:45:11
斎藤清二 @SaitoSeiji

⑩ここからは例として「メガネをかけた美少女」を取り上げ、AFPという現象の3要素「認識の主体」と「認識の対象」と「認識の本態」の関係を考察する。そのうちの「認識の本態」であるFA (魅惑実在性)は、直接要素としては認識されない、ある意味では「謎のもの」である。

2012-05-02 20:50:07
斎藤清二 @SaitoSeiji

⑪AFPはいくつかの異なった体験として描写できる。「認識する」はその一つの側面であり、この場合、「認識の主体」(subject)は『私』であり、「認識の対象」(object)は「メガネをかけた美少女」であるが、これは物理的実在とは考えられない、と前回論じた。

2012-05-02 20:53:14
斎藤清二 @SaitoSeiji

⑫くりかえすと、 対象としての「眼鏡をかけたフカキョン」という現実(?)の人間、「フカキョンのテレビ映像」、「眼鏡をかけた美少女が登場するアニメ、ゲームイラストなどの画像」、「眼鏡をかけた美少女フィギュア」が、ほとんど同じようにAFPを生じさせるるということはよくある。

2012-05-02 20:59:48
斎藤清二 @SaitoSeiji

⑬もし、物質的実在がAFPの対象であるとすれば、血や肉やタンパク質などの生体物質、液晶パネル、紙とインク、粘土やプラスチックなどが、どれも同じAFPの対象となっていることになる。断じてそんな説明はナンセンスである。だから、少なくともAFPの対象は物理的実在ではない・・

2012-05-02 21:02:12
斎藤清二 @SaitoSeiji

⑭さてそれでは、「私」はどうやって、「今、AFP(萌え)という現象が起こっている」ということを知るのだろうか?これも、厳密にはかなりの議論が必要だとは思うのだが、あえて言えば、「私」は、それを、「私全体で知る」のである。

2012-05-02 21:05:31
斎藤清二 @SaitoSeiji

⑮この「全体で知る」という表現もあくまでも比喩的表現であって、この「体験」は、実はことばでは正確に表現できない。まさに、AFPの体験は、私達から「ことばを奪う」のである。 本来ことばで表現できないということを明確に認識するならば、逆にどのようなことばをも使うことも可能になる。

2012-05-02 21:10:30
斎藤清二 @SaitoSeiji

⑯AFPを「正しく」表現することばなどないしかし、その「体験」そのものを誘発しやすい「ことば」もあれば、そうでない「ことば」もある。 「とろける」「とろかされる」などという表現は、かなり優れた表現だと思う。もちろん「萌え」という表現もそれほど質の悪いものではない。

2012-05-02 21:14:55
斎藤清二 @SaitoSeiji

⑰論をもとに戻すと、『私』は「私自身の『全体(心と身体を区別しないもの)』に聞く」とこによって、「眼鏡をかけたフカキョンのテレビ映像」と、「眼鏡をかけた美少女フィギュア」が、『私』にとって、同じAFPの対象足りうるかどうかを知ることができる。

2012-05-02 21:18:31