赤壁の戦い(再考)

三国志モノのクライマックスにされる事が多いレッドクリフについて、今一度考えてみた。 錯綜する記述をまとめ、整合性を取りつつ、最も曹操らしい戦争に再構成した短いまとめ
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Jominian @Jominian

赤壁について考え直すべきか?

2012-05-03 00:22:48
Jominian @Jominian

http://t.co/Z7TDVy65 http://t.co/JCSdrbEP 関連する記事と、史書の読み直し。若き日のジョミにゃんとむじんさんとゴルハム

2012-05-03 00:36:34
Jominian @Jominian

5年前の俺は、今よりもっと西洋的合理性に囚われて戦争を考えているし、文化というものを軽視している。多分、今考え直せば多少は変わる。赤壁も

2012-05-03 00:40:33
Jominian @Jominian

多分、曹操は水上戦闘をしていないし、しようと考えてもいない。船は輸送手段だから。輜重を守るのと同じ感覚で船を守っていたし、輜重によって物資を運ぶのと同様に船を運用していた

2012-05-03 00:49:30
Jominian @Jominian

でも、よほど大胆に解釈を変えない限り、結果も大胆には変わらないんだよなあ

2012-05-03 00:51:21
Jominian @Jominian

江陵に船は無かったよ説を採りたい気持ち

2012-05-03 01:02:45
Jominian @Jominian

浦口はやはり一般名詞とすべきだろうな。或いは、涌口の誤記

2012-05-03 01:07:42
Jominian @Jominian

曹操は巴丘を経由してるんだよな。この巴丘ってのも華容県の東南にある巴丘湖と考えた方が、俺の解釈には都合が良い

2012-05-03 01:20:41
Jominian @Jominian

江陵の曹操に船は無かった。これは英雄記の記述と一致する。彼が船団を手に入れたのは襄陽でであるから。んで、漢水経由で長江に船を呼び寄せた。ただし、比較的大型の艦船は足が遅いし、数も足りないので、筏を作って漢水を下らせた http://t.co/5uprtzRo

2012-05-03 01:34:50
Jominian @Jominian

曹操が通ったのは、通説とされている長江ルートではなく、恐らく夏水ルート

2012-05-03 01:36:11
Jominian @Jominian

曹操には夏口を劉備が占拠しているであろうことが予測できたので、漢水を下って夏口には出ない。自分も江陵にいる上、大規模な船団が無いから夏口まで船で行くのが困難だったからだ。江陵から夏口へ陸路で行くのは、あまり得策ではない

2012-05-03 01:40:32
Jominian @Jominian

曹操は城攻めが嫌いなので、本心から言えば呉軍と劉備を野戦で撃破したかった。しかし、捕捉出来なきゃ会戦はできないので、とりあえず夏口を落とすことを目標にして軍を進めた

2012-05-03 01:44:26
Jominian @Jominian

涌口まで来たところで、南岸に渡りたかったので、襄陽からの船団(筏ばっかりだけどね)を待った。次第に船が集まってきたけど、大規模に渡河するまではいかなかったので、烏林で待っていたら、周瑜が来てしまった

2012-05-03 01:46:26
Jominian @Jominian

やっべって思って慌てて渡河したけど、船が揃ってなかったから周瑜にやられちゃって、もっかい烏林まで退いた。お茶目な曹操だね

2012-05-03 01:47:35
Jominian @Jominian

睨み合いを続ける内に、じわじわ船団が揃ってきて、「さあこれからだ」って時に、黄蓋が投降&火計で船が焼かれちゃう。もう夏口にも行けねえよ、ってことで南郡に帰っていくことになった

2012-05-03 01:49:20
Jominian @Jominian

全体の流れはそんな感じ。後は、それぞれの時点での曹操の判断を説明してく

2012-05-03 01:50:41
Jominian @Jominian

まず夏水ルートを採った理由。これは、船が無いのにわざわざ遠回りの長江沿いに進む必要が無いから。非常にシンプル

2012-05-03 01:52:13
Jominian @Jominian

次に、涌口を選んだ理由は、ここが襄陽から漢水を経由して長江にいたる水路で、夏口を除くと最も東であるから。また、これ以上東だと陸路を通る曹操軍には行軍に不便が生じる

2012-05-03 02:00:26
Jominian @Jominian

次に、曹操が長江南岸への渡河を目指した理由。これもシンプル。北岸は雲夢沢が広がり、戦闘にも行軍にも難があって、とても夏口まで到達できないから。陸戦を想定していた曹操には、北岸を進み続けるという選択肢はありえない。

2012-05-03 02:02:10
Jominian @Jominian

また、烏林にいた理由は、そこに中洲があったから。中洲があるということは渡河が容易になるし、輸送船団を防護するのもまた容易になる。水上戦による敵艦隊の撃滅という概念が頭に無い曹操にとって、長江を渡る場所は中洲がある場所というのが絶対条件だった

2012-05-03 02:04:42
Jominian @Jominian

また、中洲がある場合、もしもの時は艦船を幾つか沈めて、敵船の遡上を妨害すれば、渡河と輸送の維持が楽になる

2012-05-03 02:06:14
Jominian @Jominian

曹操軍に疫病が蔓延したのは、そもそも烏林までの行軍においても、一部分とは言えぬかるんだ雲夢沢を越えたから。

2012-05-03 02:10:22
Jominian @Jominian

曹操の敗因は、湿地の通行を甘く見たことと、長江を通行の障害としかみなさず、水上戦の準備をろくにしなかったこと。

2012-05-03 02:11:44
Jominian @Jominian

赤壁の戦いについて 完

2012-05-03 02:12:01
Jominian @Jominian

前回の考察もそうだけど、今回も既存の赤壁と全く違う内容。だけど、恐らく記述とも整合性が取れている

2012-05-03 02:12:40