【三国志】白馬の戦い

官渡の戦いの緒戦である白馬の戦いについて少し考えた。
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Jominian @Jominian

関羽が顔良をぶっ殺した場面を読むと、関羽は騎乗しており、一方で顔良は馬車に乗っていた。騎乗して歩兵を指揮するのは分からないでもないが、馬車で騎兵を指揮するのは困難だろう。顔良の軍は歩騎連合だったとしても、顔良直卒は歩兵だったということだ。

2013-10-04 07:52:45
Jominian @Jominian

顔良攻撃は、陽動後に軽兵で行われたとあるから、関羽は恐らく騎兵を率いていた。この騎兵の襲撃を押し止める効果的な部隊が、顔良の手元になかったのだろう。顔良は白馬の攻囲から離れて関羽迎撃に来てるのだから、迎撃部隊の抽出を誤ったと見るべきだろうか

2013-10-04 07:59:04
Jominian @Jominian

顔良の白馬での立場はよく分からんな。

2013-10-04 12:56:37
Jominian @Jominian

顔良の件は材料がないので、想像するしかない。各人物の思考をトレースしてみなければ

2013-10-05 13:17:59
Jominian @Jominian

白馬攻めの大将は顔良だろうな。武帝紀以外は顔良としか書いてないし

2013-10-05 14:41:33
Jominian @Jominian

白馬攻めの目的は、白馬そのものの攻略ではなく、袁紹の渡河に際した先遣隊として、渡河点を確保することだ。白馬の城と河との位置関係が知りたいところだ

2013-10-05 14:48:31
Jominian @Jominian

白馬の攻防について深く考えることは、袁紹軍の目的を図る上で非常に重要なのではないかと思った

2013-10-05 16:43:13
Jominian @Jominian

緒戦は白馬であり、この緒戦にこそ、全体に貫かれる意思が見えるはずである。

2013-10-05 16:45:30
Jominian @Jominian

白馬は、或いは曹操に迫る袁紹軍の主たる経路では無かったのかもしれない

2013-10-05 17:04:01
Jominian @Jominian

白馬を袁紹本隊渡河の為の先遣と見ると、不自然な場所がある。パズルのピースが微妙に合っていないのに、摺り合わせて無理矢理はめ込むような状態

2013-10-05 18:22:11
Jominian @Jominian

なんとなく、官渡の緒戦が見えてきたぞ。もうちょい考えたら話そう

2013-10-05 18:37:41
Jominian @Jominian

袁紹は、もとより延津から渡河するつもりだったのだと思う。しかし、その前に曹操を待つ必要があった。袁紹が、白馬を早々に押さえながら、二ヶ月も黎陽に留まったのは、敢えて曹操を待つためだろう。

2013-10-06 00:26:37
Jominian @Jominian

曹操は、官渡の戦い前年に黎陽に出て、于禁を延津に残して官渡へ帰っている。ここで、曹操の対袁紹の作戦は決まったと見ていい。曹操は黎陽に出ながら、河南の白馬まで戦力を退かせ、一方で延津の北岸に于禁を置いた。この態勢での迎撃が基本方針ということだ

2013-10-06 01:07:49
Jominian @Jominian

曹操が白馬、つまり河南に兵を置いたのは、白馬から袁紹に攻め込ませるためだ。そして、延津の北岸に兵を置いたのは、延津から攻めるためだ。白馬に強力な軍を置き、半渡に乗じて敵を叩く。敵の戦力を減耗させつつ退き、袁紹が河南で突出したところで、延津から一気に後方を突こうとしたのだろう

2013-10-06 01:12:05
Jominian @Jominian

曹操の作戦では、一気に黄河を渡られると、敵を叩く事ができないので破綻する。つまり曹操がいない間に白馬を包囲された時点で、初期の構想は破綻している。この時点で白馬は放棄しても大勢に影響はなかったはず。延津から白馬までの、いずれかの地点で敵を拒止した上、北岸から後方を攻めれば良かった

2013-10-06 01:17:13
Jominian @Jominian

曹操は白馬を放棄せず、劉延を救った上で退いた。これは、袁紹の南進で始まった離反を食い止める、パフォーマンスに過ぎない。そのパフォーマンスのため、北岸から後方を突こうとするという、初期の構想の要を使ってしまった。しかしこれは、既に破綻した作戦に固執するよりは良い

2013-10-06 01:19:41
Jominian @Jominian

曹操は、「袁紹は攻めてこない」と強がったが、あっさり白馬を包囲され、作戦が破綻した。袁紹は攻めてこないと言っていた曹操の幕僚も面目丸潰れである。それはそれとして、袁紹には時間があったのに南下を停止した。これは、曹操が白馬に来るか、或いは延津から黄河を北に渡るのを待っていたのだ

2013-10-06 01:30:45
Jominian @Jominian

于禁は単に延津に派遣されたわけではなく、戦いの始まる数ヶ月も前に延津守備の任に就いていたのだから、ここには半ば恒久的な陣地が作られていただろうし、曹操はここを放棄するつもりはなかったはず。渡河する敵を対岸で迎え撃つ有利を捨てて北岸を守ると言うことは、防御というより反攻の起点だろう

2013-10-06 13:26:43
Jominian @Jominian

袁紹が一気に南下しなかったのは、深く進みすぎた場所で曹操の主力が帰還した場合に、これを抑えきれる公算が高くなかったからだろう。どの道、白馬救援に曹操がやってくるので、そこで撃破した後に安全に南下する方針だったのだと思われる。つまり、袁紹に対して曹操の軍は脅威となる規模だった

2013-10-06 13:30:46
Jominian @Jominian

袁紹は主たる戦場を延津・黎陽間に置いていた。そこで曹操を撃破し、最悪でも拒止し、且つ、白馬から延津南岸に軍を出そうとした。曹操が白馬に向かうなら、白馬で曹操を防ぎ、その隙に全力で延津を突破するつもりだった。白馬の顔良が曹操の接近に気付かなかったのは、曹操が延津を進んだと思ったから

2013-10-06 23:14:30
Jominian @Jominian

顔良は自分から十余里(5km程度)に近付かれるまで、関羽らの存在に気付かなかった。これは、袁紹主力がそのまま南岸を進むなら有り得ないことだ。だから、袁紹は北岸を進むつもりだった

2013-10-06 23:24:29
Jominian @Jominian

規模にもよるが、野戦の為の戦闘隊形を整えるには、半日或いは一日掛かったりする。十余里の距離は、騎兵ならすぐにでも、歩兵でも数時間で到着する。最早戦闘は避けられない距離。まともなら、白馬近傍で隊形を整えて敵を待つだろう

2013-10-06 23:29:28
Jominian @Jominian

白馬の戦いは、顔良が曹操軍接近の報に驚き、白馬包囲の軍から急ぎ迎撃部隊を抽出し、戦闘隊形を整えている所に関羽の騎兵が到着したのだろう。関羽の方も部隊は揃ってなかっただろうが、バラバラの歩兵に対する騎兵の圧倒的有利と、敵の中に見えた大将の車蓋を見て、一気に顔良を斬りにいったのだろう

2013-10-07 12:56:29
Jominian @Jominian

顔良の時にせよ、于禁の時にせよ、敵の不利に対して一気に攻め掛かる果断さが関羽の売りなのかもしれない。こういうのは騎兵隊長の性質だったりするので、劉備軍初期の騎兵は関羽が担っていたのかもしれない。

2013-10-07 12:59:41
Jominian @Jominian

顔良をあの流れで討ち取るという事は、関羽は軍の先頭に立ち真っ先に敵に到達し、戦いの始まってすぐ、顔良に迫ってこれを討ったという事だ。つまり、顔良軍の崩壊は関羽の一撃から始まった。張遼や徐晃が従軍していたとしても、功績の筆頭は関羽以外にない。他は、指揮官を失った敵の掃討以上ではない

2013-10-07 19:52:39