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2016年3月6日

三国志において、呂布と並び称された大物・臧洪について

三国志において、その行動が謎とされ、呂布と並んで列伝されていることだけが妙に有名な臧洪(そうこう)についての記事です。このことについて、六合さんが語っていたのをまとめました。一番嫌いな人物としてあげていたのが、相当に思い入れのある人物になる過程が興味深いです。
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陸合 @Rieg__Goh

三国志で賞賛されている人の伝を読むと、現代人の感覚では「?」となることもある。

2014-12-15 23:33:24
陸合 @Rieg__Goh

@yougoha 自分も臧洪を思い浮かべてツイートしました。当時史料を無批判に受け入れていたので、陳寿の記述を現代人の感覚で見ることもできるのだなと新鮮に感じたものです。

2014-12-15 23:45:57
陸合 @Rieg__Goh

また、東阿県狙いの陳宮が軍を率いて東郡を通って北から黄河を渡ろうとしたが、程昱に渡し場を破壊されて渡河できないということがあった。曹操の盟主袁紹の配下である臧洪は東郡太守(黄河北岸の東武陽に駐在)なので、本来なら陳宮を阻止するはず。だがスルー。既に意を通じていたのではないか。

2015-01-21 21:01:05
陸合 @Rieg__Goh

あの袁紹に無断で臧洪がそういうことをしたならば、熱いお仕置きがあるはずだが、そうはなってない。袁紹も陳宮を見逃した臧洪の意図を知っていたのではないか。つまり、半年ほど袁紹が曹操を見捨てた時期があったのではなと。

2015-01-21 21:02:49
陸合 @Rieg__Goh

結果的に袁紹は曹操を助け、呂布は敗れた。しかしなぜ臧洪は袁紹に曹操を見捨てさせようとしたのか。物凄い優秀で袁紹に貢献もしている曹操を切るのは袁紹のためにならなそう。相当な対価が必要となるだろうから、まずその対価について考えてみる。

2015-01-21 21:11:15
陸合 @Rieg__Goh

そんな曹操が討伐を受ける羽目になったのはやはり徐州ということなんだろう。天子の命で行った討伐だが、曹操がやらかした。徐州の一大事を痛恨に思う臧洪はここで反曹操に転じ、袁紹は勿論その他勢力にも働きかけたのだろう。その結果が呂布の反乱だと思う。

2015-01-21 21:32:49
陸合 @Rieg__Goh

さらには黒山賊だけでなく、公孫瓚の反撃もあると臧洪は胸を張る。公孫瓚が麹義や劉虞の残党に敗れた鮑丘の戦いが起こった時期と近い。この戦いは臧洪がきっかけかもしれない。

2015-01-21 21:44:52
陸合 @Rieg__Goh

よって臧洪は微妙にずれた人ではなく、反董卓連合以来、物凄い影響力と計略を持ち、一貫して天下のため朝廷のために動いた人と考えたい。

2015-01-21 21:46:46
陸合 @Rieg__Goh

臧洪は一貫して天下のためにとか書いたけど、徐州の復讐のためにとすぐ前に書いたのを忘れていた(素) でも、徐州をめちゃくちゃにした曹操を殺すことが天下のためになるのは明らかだよね(ニッコリ

2015-01-21 23:18:21
陸合 @Rieg__Goh

もしくは、一度目の遠征での曹操のやり方を袁紹は不快に思い、二度目の徐州遠征を許さないのに、曹操が強行したとか。流れは推測だけど、とにかく、二度の徐州遠征で袁紹は曹操に決定的な不信感を抱いた。そこに臧洪が曹操の切り捨てと陳宮の計略案を示したか。袁紹は少なくともこれを黙認した。

2015-01-22 20:13:32
陸合 @Rieg__Goh

臧洪の提案だけで心を動かされたってことは多分ない。いくら重く遇しているといえども。軍内での曹操の評価がガタ落ちし、臧洪の提案を受け入れて曹操を見捨てる土壌が徐州遠征のために出来上がっていたんじゃなかろうか。もしかすると、朱霊の曹操軍への移籍も実は袁紹の意に添わなかったかもしれない

2015-01-22 20:17:39
陸合 @Rieg__Goh

天子の勅命マンである臧洪は袁紹の朝廷との和解に伴い、正式に東郡太守になったとかあったかもしれん。そういえばこの時曹操が任命した東郡太守が他にいたな。

2015-01-22 20:22:59
陸合 @Rieg__Goh

曹操の徐州遠征は臧洪という勅命マンに巨大な復讐心を植えつけた意味でも致命的だったかもしれん。

2015-01-22 20:27:04
蔣捷老師 JIANG JIE @jiangjie2015

@Rieg__Goh そうなると、人質すら差し出していない曹操は何をさしだして袁紹の援軍をとりつけたのかが気になりますね。

2015-01-22 20:46:56
陸合 @Rieg__Goh

@soukann2009 twitter.com/daradara3594/s… これだと思います。曹操が何かしたわけではなく、臧洪の提案が価値を失ったのでしょう。

2015-01-22 20:50:00
陸合 @Rieg__Goh

@soukann2009 呂布が敗れた頃、臧洪と力の源泉たる朝廷と同志の多くは力を失ってましたもんね。ただ、それでも臧洪は諦めず自分の計略を採用するよう袁紹に求めました。うまくいかなかったので、悪く言えばやぶれかぶれになったのかもしれませんね。

2015-01-22 20:56:32
陸合 @Rieg__Goh

武帝紀では曹操が一番に挙兵みたいにあるけど、兵を集めた陳留は張邈が太守。友人を頼っての事だろう。そもそも反董卓連合は臧洪が最初に企画し、張邈と張超が計画したもの。 夏侯惇「『反董卓がいいね』」と君(き↑み↓)が言ったから、中平六年(189年)十二月は挙兵記念日(まだ兵なし)」

2015-01-27 22:56:56
陸合 @Rieg__Goh

まめさん@mamesiba195に私のツイートをまとめて頂き、ありがたく思います。ただ、当時とは考えが異なる部分もあり、追記致します。臧洪が曹操を陥れる計略の実行に深く関わったと考えるのは以前通りですが、陳留に長く留まった勅使趙岐が立案に大きな影響を与えたと思っております。

2016-03-06 22:59:27
巫俊(ふしゅん) @fushunia

@Rieg__Goh @mamesiba195 愛妾をさばいて、調理して飢えた将士に食べさせたんですよね…余談ですが、 読みは臧洪(ぞうこう)ですよね?以前、中学生の三国志ファンの人たちが、辞書をひいて臧洪(そうこう)と読みを確認されてたんですが、それだと濮陽も「ほくよう」なので

2016-01-24 22:11:22
陸合 @Rieg__Goh

@fushunia @mamesiba195 本来はソウと読むらしいですね。臧覇も。この人の伝はほんと現代の価値観との違いがわかる好例ですね。

2016-01-24 22:43:38
巫俊(ふしゅん) @fushunia

@akane_0408 ふつうの漢和辞典の『漢語林』でしらべると、「そう」や「ほく」が正しい発音、「ぞう」「ぼく」は慣用音とありました。慣用音は日本語で発音しやすい勢いのある言葉なので、「ぞうこう」でいいかなと思いました。

2016-01-24 22:29:23
巫俊(ふしゅん) @fushunia

臧洪と東武陽については、私もここに書いています。年次がありませんが、2008年より以前の投稿記事です。話題になっている陳宮の出身地について言及しています。なお、陳宮が東武陽出身ということは、自分で書いておきながら忘れていました  m.z-z.jp/thbbs.cgi?id=3…

2016-01-25 22:41:49
巫俊(ふしゅん) @fushunia

archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/ru05/ru0…  早稲田大学図書館古典籍総合データベースの『水経注図』からです。中央やや下よりに「東武陽故城」「臧洪為東郡治此」とありました。東武陽故城は放棄されたらしく、隣に武陽新城があります。

2016-01-26 22:22:04
巫俊(ふしゅん) @fushunia

黄河北岸の「武陽新城」のところに「東阿」とあり、「曹操■東郡所治」と書かれていました。この部分は『中国歴史地図集』と食い違っている(東阿は黄河の南岸にあたる)ので、東阿を黄河の北岸とするのは書き間違いのようです。臧洪と曹操の拠点は、黄河をはさんでいるだけで、目と鼻の先なんですね。

2016-01-26 22:38:26
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コメント

巫俊(ふしゅん) @fushunia 2016年3月6日
ツイートを追記させて頂きました。ありがとうございます。
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巫俊(ふしゅん) @fushunia 2016年3月6日
臧洪がいた「東武陽」という県は、後漢=エン州、三国魏=冀州、西晋=司州と、所属先を変えていくのですね。東武陽は黄河北岸なので、河北の経済に組み込まれていったみたいです。そもそも、エン州という州名は「はさまれた」という意味で、黄河と済水のあいだの堆積平野を呼んだ言葉でしたが、その黄河の流路が変わってエン州をくり抜いて流れるようになっていたので、ようやく三国の時代になって境界が整理されたのですね。
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巫俊(ふしゅん) @fushunia 2016年3月6日
それと、『水注経図』の黄河北岸のあたりの地図に、東武陽故城(臧洪為東郡治此)と武陽新城(曹操■東郡所治)が並んでいることについてですが、そうすると、袁曹同盟軍は、臧洪が治めている「東武陽城」を包囲して機能を停止に追い込みつつ、その西の同じ黄河北岸に「武陽新城」を建設して、黄河の渡し場の守りとした可能性がありますね。
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巫俊(ふしゅん) @fushunia 2016年3月6日
http://www.guoxue123.com/other/map/zgmap/index.htm 中国史研究の基本ツール「中国歴史地図集」が見れるサイトです。目次を開いていくと、各時代の地図が見つかります。
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巫俊(ふしゅん) @fushunia 2016年3月6日
「中国歴史地図集 後漢エン州」地図のたて4-よこ2の場所に、後漢の「東武陽」があります。 「中国歴史地図集 三国魏冀州」こちらは、たて7-よこ5の場所です。 よく見ると、場所が違うことが分かります。この地図は三国魏の262年の地図ですが、武陽新城が三国魏の「東武陽」県城でした。
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今日が終わりの始まりの日 @__blind_side 2016年3月6日
臧洪は盛れそうな要素はあるのに、演義だとスルーされいるのが気になりました。あと、土地を介した臧洪と陳宮の因縁も興味深いと。
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