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國分功一郎氏による「ハイデガーの〈世界への超越〉について」

國分功一郎氏(@lethal_notion)のツイートをまとめました。
國分功一郎 哲学
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KoichiroKOKUBUN國分功一郎 @lethal_notion
『暇と退屈の倫理学』で俺は環世界論提唱者ユクスキュル本人の考えに倣い、人間の環世界を論じた。さて、ハイデガーは人間の環世界を認めない。ハイデガーによれば、人間は〈世界へと超越〉している。(環世界ならぬ世界を生きているという意味で)〈世界内存在〉であり、〈存在投企〉している。
KoichiroKOKUBUN國分功一郎 @lethal_notion
ハイデガーによれば、〈存在投企〉している現存在=人間なるものは、自らが出会うものに、(環世界に依拠した)特定の意味を付与することなく、単に存在者としてこれを扱うことができる。現存在のこのようなあり方を支えているのは、人間独自の時間性(将来・既在・現在)である。
KoichiroKOKUBUN國分功一郎 @lethal_notion
自らを時間化するsich zeitigenする、現存在のこのような時間的様態があればこそ、〈世界への超越〉が可能である。要するに、環世界から抜け出た生が可能である。ハイデガーの環世界/世界論にはとりあえずこのようにコメントできると思う。
KoichiroKOKUBUN國分功一郎 @lethal_notion
俺はこの〈世界への超越〉というのが、やはり良く分からない。いや、ある意味では分かる。そして、そうだったらなんかいいな、という気持ちすらある。しかし、本当に人間は〈世界への超越〉を生きているのだろうか。動物と人間を比較していろいろなことは言えるだろうが、けれど、
KoichiroKOKUBUN國分功一郎 @lethal_notion
自らが出会うものを、特定の意味を剥奪されたものとして、つまり単なる存在者として扱うことができるというのは、しかし、可能性ではないだろうか?そういうことは人間にはできるかもしれないが、しかし、それは"できるかもしれない"という可能性ではないのか?
KoichiroKOKUBUN國分功一郎 @lethal_notion
それに、自らが出会うものを、完全に単なる存在者とみなすことなど本当にできるのだろうか? どんなものと出会っても、人間はそこに自分なりの意味を見出してしまうのではないだろうか?
KoichiroKOKUBUN國分功一郎 @lethal_notion
ならば、やはり俺には、「人間の特性とは環世界を比較的自由に移動できることにある」という、『暇と退屈の倫理学』が提唱した「環世界間移動能力Inter-Umwelt mobility」の概念に基づく人間の定義の方が妥当である様に思われるのだ。
KoichiroKOKUBUN國分功一郎 @lethal_notion
本でも言ったが、人間は環世界間移動能力が動物よりも相対的に、しかし相当に高いというこの相対的差異を絶対的差異にすり替えたときに、現存在の〈世界への超越〉が現れるのではないか。
KoichiroKOKUBUN國分功一郎 @lethal_notion
ここまでは、『暇と退屈の倫理学』http://t.co/lQyHPqQX に書いたことに多少ハイデガー知識を足したものなので、関心ある方は本を読んでいただきたい。問題は、先に書いたsich zeitigenの問題である。
東郷正永 @TOGO_Masanaga
ヴィトゲンシュタインが生きてたら、ハイデガーとさぞ仲悪かっただろうなw
東郷正永 @TOGO_Masanaga
心理学的には、それはアフォードへの想像力と言い換えられるかも。 QT @lethal_notion: 本でも言ったが、人間は環世界間移動能力が動物よりも相対的に、しかし相当に高いというこの相対的差異を絶対的差異にすり替えたときに、現存在の〈世界への超越〉が現れるのではないか。
KoichiroKOKUBUN國分功一郎 @lethal_notion
ハイデガーは人間=現存在の〈世界への超越〉を、現存在独自の時間性によって基礎づけようとしていた。これがまだ俺には良く分からない。これが本当に〈世界への超越〉を基礎づけられるのか? つまり、環世界からの自由を基礎づけられるのか? 問題はやはり、存在と時間なのだ。
KoichiroKOKUBUN國分功一郎 @lethal_notion
現存在の「自己を時間化すること sich zeitigen」とは、本当にそんなに特別なことなのだろうか? なんか、そもそも〈世界への超越〉が結論としてあるから出てきた論点に思えてならない。ここをもう少し知りたい。
KoichiroKOKUBUN國分功一郎 @lethal_notion
まだこれは自分でも十分に噛み砕けていないのだが、環世界間移動能力の高さが、人間独自の時間性を形作っているとはいえないのだろうか?
KoichiroKOKUBUN國分功一郎 @lethal_notion
ぶっちゃけて言うと、人間が〈世界へと超越〉してるとかって、すげーカッコいいんだよね。〈存在投企〉が生起してるとかも。でもこのカッコよさは警戒した方がいいと思うんだ。何となく飲み会行って、周りに話し合わせて、なんか退屈…っていうこのカッコ悪さにこそ、現存在の真理があると思うんだ。
KoichiroKOKUBUN國分功一郎 @lethal_notion
ハイデガーは、プラトン以来の、素材としての自然という考えが人間中心主義を招くものである事を批判的に捉え、その結果、プラトン以前の思想家達が捉えていた〈自然〉観に注目した。単なる素材ではない、力を内在させたフュシス(自然)と、その力をこちらへともたらすテクネー(技術)。
KoichiroKOKUBUN國分功一郎 @lethal_notion
人間はフュシスの力をテクネーによって、「こちら側にもたらすhervorbringen」ことで生きることができる。
KoichiroKOKUBUN國分功一郎 @lethal_notion
こうして、プラトン以前にまで遡って人間中心主義を批判したハイデガーが、なぜ、動物と人間はちがう、人間だけが〈世界へと超越〉している、という人間優位論を説くのだろうか?それは人間中心主義ではないのかもしれない。しかし、人間優位論ではあろう。
KoichiroKOKUBUN國分功一郎 @lethal_notion
イデアを立てれば、自然は、イデアを具現化するための素材になってしまう。イデア以外は真なる存在ではないのだから。こうして、あらゆる物は被制作物と捉えられることになる。そのとき、人間もまた、自然という素材を自らの思うがままに利用するという発想に陥らざるを得ないだろう。
東郷正永 @TOGO_Masanaga
ユクスキュルとギブスンは、どうも似ている気がします。 RT @lethal_notion: @TOGO_Masanaga なるほど。

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