問いを排除する「パターンの固着」について ~画家・永瀬恭一氏

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永瀬恭一(一人組立) @nagasek

「美術批評誌の価格設定について」、まとめて下さった @kasuho 様により、記事の追加がされています。関心あるかたは、よろしければ。http://t.co/cictJTBA

2012-05-18 22:50:24
永瀬恭一(一人組立) @nagasek

批評誌の定価問題ツイートは複数の方に疑問を呈され、土屋誠一氏には「談合なのでは」と言われてしまいました。既にツイートしたように僕はそういった意図でこのツイートを始めたわけではありません。しかし、端的に言って粗雑なものでした。実際、肯定的な意見は相対的に僅かだったかなと思います。

2012-05-18 22:59:35
永瀬恭一(一人組立) @nagasek

必ずしも賛同者を募るつもりではなかったのですが、他の人から見れば根拠なき攻撃的言葉ととられても仕方のない内容でした。すいません。そこで、改めて、自分の問題を、なるべく攻撃的言葉をなくして書き直してみたいと思います。

2012-05-18 23:01:29
永瀬恭一(一人組立) @nagasek

これも長くなりそうですので、ウザったいなと思われた方は是非遠慮なくリムーブしてください。ただ、一点だけ事前に。

2012-05-18 23:02:18
永瀬恭一(一人組立) @nagasek

そういう長文はブログでやれ、という指摘がありうるかな、と思いました。僕もそう思ったのですが、これに関してはやはりTWITTERで書くべきと考えました。舞城王太郎に「熊の場所」という小説があって、以下の言葉があります。「恐怖を消し去るには、その源の場所に、すぐ戻らねばならない。」

2012-05-18 23:02:56
永瀬恭一(一人組立) @nagasek

【定価1】最近ポロックの展示がありました。ART TRACE PRESSだったか、他のTXTだったか忘れましたが、ポロックが往々にして「描かない」時期があったことを取り上げ、それが画家にとっていかに重要だったかを指摘していました。実際、ポロックは何度も制作の中断期間を持ちます

2012-05-18 23:24:45
永瀬恭一(一人組立) @nagasek

【定価2】僕も画家にとって「描かない時間・時期」をもつことは大事だと思います。一般に、画家というのは、放っておくと延々描くループに入ります。画家というのは、10年も続けていればどうしても「描く」一定の技術や体制は出来ています。描こうと思うと、描けてしまうわけです。

2012-05-18 23:25:41
永瀬恭一(一人組立) @nagasek

【定価3】ただ、問題なのは、この「続く描き」が、形式化しルーチン化してマニエリズムになりやすいということです。無論、意図的反復、例えばウオホールのスープ缶やジャッドのユニットの反復は別です。それはむしろ反復を隠蔽した反復への異議です。

2012-05-18 23:26:49
永瀬恭一(一人組立) @nagasek

【定価4】次から次へと絵を描いてしまう。このとき何が起きているかというと、作り上げられた「描く体制」の自動運転によって、全てが平準化し、馴らされてしまって、「描き」そのものが抑圧されてしま事態です。つまりここでは、一見絵が生産されているように見えて、問いは抑圧されています。

2012-05-18 23:28:03
永瀬恭一(一人組立) @nagasek

【定価5】そういうことを起こさないために、画家はいろいろ工夫するのですが、ポロックは「中断」という手法を使ったのだ、けして酒などにおぼれていたんじゃない、というわけです。逆に言えば、酒などによる強制終了で、自分のルーチン化を防いだとも言えるでしょう。

2012-05-18 23:31:59
永瀬恭一(一人組立) @nagasek

【定価6】ひきこもり研究家の上山和樹さんはこの事を考えてます。ひきこもりを産む社会とは一見労働を続けていく体制を固めてしまっている、つまり「動かしているというアリバイを作るためにその実まったく動かなくて済むパターン」であり、そのパターンに乗れない「問い」を排除する社会でした。

2012-05-18 23:41:14
永瀬恭一(一人組立) @nagasek

【定価7】上山さんの言うことは労働パターンに乗れないひきこもりの全面擁護ではありません。ひきこもりもまた自分のパターンに固着してそれ以外の世界を排除している。そこで世界とひきこもりは「問い」を抑圧するという一点を堂々巡りしている。

2012-05-18 23:44:16
永瀬恭一(一人組立) @nagasek

【定価8】上山さんが提唱するのは、労働パターンとひきこもり双方の固着ポイントに介入する「制度分析」です。ここではルーチンとして生産し続けるのでも、ルーチンとして引きこもるのでもない、それぞれの主体が相互に自分の固着ポイント(制度)を分析する、という手法です。

2012-05-18 23:45:02
永瀬恭一(一人組立) @nagasek

【定価9】描き続けられることがある危険を孕んだとき、たとえばポロックが酒によって強制終了のボタンを押した。この強制終了、あるいはもう少し柔らかに言えば、終わりを見失った演奏に「休符」を挟む行為を、まずは批評、ということは可能なのではないでしょうか。

2012-05-19 00:01:31
永瀬恭一(一人組立) @nagasek

【定価10】もし批評というものを、他ならぬ画家が自分で書き出そうとするときの、その動機とはまさにこのような「休符」をうみだすところにあるように思います。生産が停滞のアリバイにならないように、労働がその実怠惰のアリバイにならないように。

2012-05-19 00:03:38
永瀬恭一(一人組立) @nagasek

【定価11】ですから、批評とは、常に「制度分析」として機能する。いや反対で「制度分析」として機能する物を僕は批評とよんでいます。批評の体裁は整えているのに生産のルーチンを補強しかしないTXTがあるように、一見批評に見えないTXTに「制度分析」としての機能が搭載されていたりする。

2012-05-19 00:07:48
永瀬恭一(一人組立) @nagasek

【定価12】ということは、批評は、それ自体がルーチン化したときに命を終えるし、逆にそれを阻止するために常に自己差異化しなければいけない。ある一方向を向いた批評は危険です。事はようやく主題に近づきそうですが、どうせここまで迂遠に来たので、さらに迂回します。

2012-05-19 00:11:40
永瀬恭一(一人組立) @nagasek

自分が高橋源一郎化しててうざい。

2012-05-19 00:13:26
永瀬恭一(一人組立) @nagasek

【定価13】絵を描き続けることがルーチン化しそうなとき、これを防ぐのにむしろ一般的なのは、おそらく絵を見ることです。よく言われることですが、日本は描く教育はスパルタ的なのに(僕の美術予備校時代はそうでした)、驚く程鑑賞教育をしません。

2012-05-19 00:17:10
永瀬恭一(一人組立) @nagasek

【定価14】絵を描く技術はありながら日本の美大生が在学中からマニエリズム化するのは、描いてばかりで他の人の作品、とくにマスターの作品を「見ない」故です。むしろデッサン力などで危うい学生がその後伸びるとしたら、恐らくその学生は「見る」ことをしています。

2012-05-19 00:20:18
永瀬恭一(一人組立) @nagasek

【定価15】ここまでは意識的な美術関係者なら共有してる問題点ですが(その割に教育が改善しない不思議)この先に更に面倒なことが起きます。絵画鑑賞のルーチン化です。絵を見る体制が固まってしまい実作を見ている(往々にして過剰に細部を見ている)にも関わらず紋切り型の批評しか生みません。

2012-05-19 00:29:09
永瀬恭一(一人組立) @nagasek

【定価16】この事態を敷衍すると、以下のような構図があり得ます。つまり批評を書くことのマニエラ化がありうるとして、それに有効に対処するのは批評を読むことです。しかし、この批評を読む行為にもマニエラ化がありうる。

2012-05-19 00:37:04
永瀬恭一(一人組立) @nagasek

【定価18】芸術或いは美術に、もし存在意義が在るとしてそのある側面は世界のマニエラ化、固着化に対し「制度分析」として介入する事だと思います。つまり美術は世界に対し制度分析として機能し続けるために、自己を常に制度分析しつづける。その総体を「美術-批評」とまずは呼びたいと思います。

2012-05-19 00:43:52
永瀬恭一(一人組立) @nagasek

【定価19】美術批評が「美術-批評」となりうるか。僕は先に最近美術批評誌が沢山出てかえって不安だ、みたいなことを言いました。この「かえって」は無論反語的表現であり基本的に好意的であることは汲んでいただけると思うのですが、実は反対のことも思ったのです。

2012-05-19 00:52:21
永瀬恭一(一人組立) @nagasek

【定価20】美術関連の書籍が充実しているあるお店で、先月、最近出た美術批評誌が並んで平おきされていました。正確に4誌。その全てがB5縦の版型で表紙だけカラー印刷、内容はモノクロ一版で作られていました。この「揃い方」に僕はやばい、と思いました。

2012-05-19 00:53:52