- sakaki_koheita
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あとお兄さんの話は、独自解釈や推測も含まれるよ! なるべく現在史実と言われていることを言うようにするけど、あんまり記録が残ってない部分が多いので、そのへんは勘弁してほしい
2011-07-30 14:54:21では今回のテーマは三河一向一揆について。これは徳川家康公三大危機の一。残るふたつは三方ヶ原と伊賀越えだけれど実際にはもっとピンチあったろう、というのは置いておく。
2011-07-30 15:01:20三河は信仰の厚い地域で、これは戦国時代以前から権力の空白地帯になりがちだったことで長く治まらず、領民の暮らしがすさみ、その分より仏を信じ敬う心が強くなっていったものと思われる。
2011-07-30 15:06:10さて時代はさかのぼって、家康公の祖父・清康公の時代に三河は一度ほぼ平定されました。これが清康公の死去によって、織田氏の三河への侵攻、その子広忠公の逃亡と今川氏の介入などを招きます。この混乱の中、寺社は戦乱にまきこまれぬよう、それぞれ独自の治外法権ともいうべき特権を得ていました。
2011-07-30 15:10:49三河は貧乏だったという話は前にもしましたが、苦しい中でも領民達は寺社への寄進などはかかさずにおりました。反対に今川氏の勢力下にいた松平家や他家は扶持もなく、出撃費用も持ち出しなど全て持ち出しです。
2011-07-30 15:15:47松平(徳川)家が三河平定するため、それまで不介入の特権をもっていわば放置されていた寺社へも、影響力を強める必要がでました。当然寺社や信徒はそれを嫌います。
2011-07-30 15:18:17菅沼氏と三河三寺のひとつである上宮寺が糧米(年貢)のトラブルを起こし、その調停にあたった酒井正親殿の家臣が斬り捨てられる、という事件が起こります。
2011-07-30 15:21:39他にも色々と事件はあるのですが、これを家康公の寺社に対する姿勢とみた本證寺、上宮寺、勝鬘寺はその信徒と共に戦闘準備にはいりました。
2011-07-30 15:25:06同時に、西三河の親今川派が行動を起こします。一向宗に同調して、松平家を追い落とすことを狙いました。上野城の酒井将監忠尚、一度は追出された東城の吉良義昭、八ツ面城の荒川義弘、六栗の夏目吉信などです。あ、夏目殿は一向宗でしたね。他は違うと思いますが。
2011-07-30 15:29:36本多家、石川家、酒井家、鳥居家、榊原家・・・ほとんどの家で、家族や親戚が敵味方になったわけです。もちろん松平家も。櫻井松平、大草松平などが一向宗側でした。
2011-07-30 15:33:25この時、一向宗側になった者の中には、後に家康公の家臣として名を残した者も多く含まれます。本多佐渡守正信、渡辺半蔵守綱などです。
2011-07-30 15:36:00例外は法華衆であった大久保家ぐらいでしょうか。大久保からは一向宗側につくものがおりませんでした。後に彦左衛門が超自慢しててむかつ・・・いやなんでもありません。
2011-07-30 15:38:29捕捉ありがとうございます RT @tadatsugutter_s 孫十郎殿の話に出てきた酒井忠尚という人物は某の伯父、もしくは兄とも言われているな、その前に出てきた酒井正親殿は雅楽頭家の者なので別の家系の者だ。
2011-07-30 15:43:01