岡﨑乾二郎氏(@kenjirookazaki) 「災害と事前の作品構造」+反応
岡崎さんの言葉、相変わらずインテリすぎてアレですが、最後まで読めば傾聴に値するかと。“@mizumaart: 呆れた発想だRT“@kenjirookazaki: あらかじめ今回の災害は表現構造に組み込まれていたと示すべき。”
2012-05-31 10:46:09@Taxxaka 失礼しました。そうかもしれませんね。私も寝ぼけ眼で書いてしまったので途中ツイートまでしか見ていなかったので余計そのように思いました。にせやはりあの言葉はないな‥と少し思いました。
2012-05-31 13:30:21相変わらず言葉のレトリックRT“@makotoaida: 岡崎さんの言葉、相変わらずインテリすぎてアレですが、最後まで読めば傾聴に値するかと。“@mizumaart: 呆れた発想だRT“@kenjirookazaki: あらかじめ今回の災害は表現構造に組み込まれていたと示すべき
2012-05-31 15:09:24岡﨑乾二郎氏のツイート、「震災(災害)」というよりは、「作品」というものを考える上で大きな示唆を含んでいるような予感がする。もちょっと考えてみよう。。。
2012-05-31 22:43:51↓トゥギャざられててビックリなんだけれどw、今日も相方とずっとこの事話してたんだけど、やはり私は事前事後両方表現としてあるべきじゃないのかなと思う。じゃないと時代に合う新たな表現として形を変え継承していく意味が無くなってしまう。先日デマンドや増本サンの作品見ても思ったけど。
2012-06-01 03:10:45以下、http://t.co/900QBT68を読んで、「事故、災害への応答」ではなく「作品」を起点に独自解釈し、自分の興味にのみ引きつけて考えたこと。つまり相変わらず「作品と作者」のつづき。
2012-06-01 22:09:19最近は大正~昭和初期に書かれた小説などを読んでいると、どうしても「1923年」を意識してしまう。つまりこれは関東大震災より前に書かれたもの、これはその何年後に書かれたものと、震災の痕跡や現在への「想定内」を書かれたもののなかに探してしまうのだ。
2012-06-01 22:10:17すべての作品は歴史の中にある。あらゆる事象に対する「事前/事後」の表現としてそれらは存在する。事象を起点に考えれば、作品の製作年は肝となる。しかし作品を起点に考えれば、製作後にその作品が辿った歴史も「作品を見ること」のなかには含まれ得る。《生々流転》などはその一例だろう。
2012-06-01 22:11:40「震災と関連づける読みが避けられないならば、震災前に作られた作品を出すべき」という発想は非常に興味深い。では実際に次回のヴェネチア・ビエンナーレに「震災前」の作品が出品されたとき、そこで観客が見るものはなんだろうか?
2012-06-01 22:13:31岡崎氏は「事前の作品構造が大事」と指摘する。パッと見、「事前の作品構造」とは「作者」と固く結び付いている概念のような印象を持つ。単純化すれば「コンセプト」と要約できてしまいそうな気もする。とりあえず「気もする」というところに留めて、論を進める。
2012-06-01 22:15:38「事前/事後」と「作者」をめぐる問題としては、以前にも少し書いた予言的価値が思い浮かぶ。予言的価値は凡て事後に判明する。しかしそこで問題とされるのは徹底的に事前のことである。そしてその関心の中心には常に「作者」がいる。ブローネルの自画像を例に考えよう。
2012-06-01 22:17:11ヴィクトル・ブローネルが事故で片目を失う以前に描いた隻眼の自画像に「予言的価値」を見出すならば、関心の焦点は作者が事前に未来の失明を予感していたか否かになるだろう。いたと見做せば作品は神秘的な価値を帯び、単なる偶然と見做せば予言的価値は消滅する。
2012-06-01 22:19:17作品の予言的価値が作者に帰結されるとき、それは「事前の作品構造」と見做すことができる。事後から見たとき、事前に作者によって作品の価値が決定付けられているからだ。そしてその構図の単純さは、作品を作者の「コンセプト」の具現化としてのみ見る見方と実は同じである。
2012-06-01 22:21:09しかし予言的価値を事後のものとして見ると様相は変わる。《生々流転》が震災に「ジャストミート」した手柄を大観のみに帰するならば、せいぜい霊能かラッキーにしかならないが、事後的に付与された歴史として「作品」に帰すならば、そこで見えてくるものは大きく変わってくる。
2012-06-01 22:23:15問題は「作品」が必ずしも作者の「意志的行為」だけで構成されているわけではないところにあるのだろう。作者の「意志」も単純に「コンセプト」としてのみ片付けられるものだけではない。さらにそこに作品に事後的に付与された解釈や歴史の堆積としての「意志」が加わる。
2012-06-01 22:24:20「想定内」を強調するためならば、作品に組み込まれた「意志」に揺らぎのない作品が選ばれるべきだろう。《生々流転》ならば描かれたテーマにこそスポットが当る。言ってみればそれは現代への反省を促す「先人の知恵(警鐘)」として作用するのだろう。マニュフェストとしては明確である。
2012-06-01 22:26:36震災と関連づける読みが避けられない場に震災前に作られた作品が出されるとき、観客がそこで見い出す「事前の作品構造」とは何だろうか? そのとき「事前の作品構造」のなかに見る「意志」とはどんな種のものか?
2012-06-01 22:25:20しかし《生々流転》が震災当日に「ジャストミート」したという歴史は、単純にその「事前の作品構造」を作者の意志のみに還元できない「イヤな面」でもある。そこでスポットを当てるべきは作者の霊能ではなく、人々がそれをどう見たかの歴史だろう。その視点は現在の自分の視点にも跳ね返る。
2012-06-01 22:27:41出品者の「意志」の提示の場として考えた場合、マニュフェスト的な明快さは必要なのかもしれない。しかし「意志」の出発点をどこに置くかで、そこで見えてくるものは大きく変わってくる。その「意志」は誰に帰属すべきものなのか?
2012-06-01 22:28:39個別の「事前/事後」を超える普遍的な「事前」または「事後」の視点といったものを想像してみる。・・・しかしこうしたことを考えていると、つくづく「作品」も、あるいは「芸術」も、その輪郭の“定まらなさ”にこそ実体があるように思えてくるな。連投失礼。
2012-06-01 22:30:12「カナリア的な解釈」と違った意味で作品の事後性を積極的に捉えるのはたしかに分かる気がする。でもその場合重要なのは、作品の「事後的」な解釈が先の震災にだけ限定されることなく、これから起こりうるあらゆる災害などに対しても開かれていること。岡崎さんの話から少々逸れているかもしれないが。
2012-06-01 22:56:01岡崎さんのツイートは、「技術には予め破綻が含まれている、等しく技術を用いて制作するアーティストはその予め含まれた破綻に自覚的であるべきである」、というアーティストの矜持として理解できる、けど。。。
2012-06-01 23:29:02