- jonathanohn
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「大正時代は児童の世紀ともいわれ、児童文化の華やかな時代だったともいわれた。子供の遊び道具にも、ゼンマイ仕掛けの動く道具ができたし、セルロイド、ゴムなどの素材で作られた遊び道具が店で売られていた。一台のゼンマイ仕掛けのオモチャを、村の子供たちが、とりまいていた。
2012-05-30 19:25:04町の親類のおじさんが土産に買ってきたのである。子供たちはこれまで動くオモチャを、一度も見たことがなかった。ゼンマイを巻けば、ひとりで走り出す。村の子供たちはびっくりした。教えてもらったとおり、ゼンマイを巻く。縁側にそっと電車を置き、手を離すと、いままで聞いたこともない響きを立て、
2012-05-30 19:39:45(承前)電車が走り出す。子供たちは、かわるがわる、ゼンマイを巻いた。日露戦争後から大正にかけて、子供の遊び道具の中に、西洋文明がやっと入ってきた。これまで、遊び道具の資材が土、石、木、竹、草、花、布と自然のものがほとんどであったが、ガラス、セルロイド、ゴム、
2012-05-30 19:42:51(承前)金属などの資材でこしらえた遊び道具が店で売られるようになった。土や貝でこしらえたメンカイが、ガラスのおはじきに変わり、布で作られた人形が、青い目のセルロイドの人形に変わった。キューピーさんが女の子に抱かれるようになったのが、このころであった。
2012-05-30 19:44:33輪ゴムをつないで、ゴム飛びができ、男の子はゴム銃をこしらえた。また、ラッパ、サーベルなど、ブリキ板でこしらえたオモチャで、戦争ごっこをした。しかし、このようなオモチャを買えるのは、一部の上流家庭の子供にすぎなかった」
2012-05-30 19:46:30@bukrd405 義父(生きていれば97歳)は子供の頃家に電気が来ておらず、学校から帰ると、ランプのほやの硝子を磨くのが仕事だったと言っていた。母は、弟妹を背負って来ていた子もいた、と言っていた。今の暮らしはつかの間の夢かもしれないと思います。未来のために守らなくては。
2012-05-30 10:23:10大正5年に熊本県の小学校で行われた遊びについての調査では、児童の好きな遊びは男子がまり投げ、兵隊ごっこ、羽根つき、お手玉などがあげられている。ただし実際には家の手伝いに追われている子がほとんどであった、とも記されている。
2012-05-30 19:51:24日本の資本主義は日清・日露戦争を経て、軽工業分野における産業革命をなしとげ、さらに第一次世界大戦の前後に重工業分野に産業革命をなしとげたことにより、いっそうの高度化をみた。資本主義の発展は、一方で社会問題を発生させた。
2012-05-30 19:59:23それは農村の窮乏化、都市への人口流入の激化とスラムへの沈殿、犯罪の激増などという形であらわれた。ある人は窮乏した家族の様子を次のように記している。「大正の末期、境川の橋の付近には、乞食があふれた。境川の乞食(非人とも呼ばれていた)といえば、
2012-05-30 20:06:11(承前)別府市に住む四、五十歳の年配の人であれば、誰もが知っている。しかしこれらの乞食は、道路の端に、むしろを敷き、道行く人に金を恵んでもらう乞食ではなかった。第一次世界大戦後の大不況で失職した労働者たちの家族であった。別府に来たものの、たやすく職はみつからなかった。
2012-05-30 20:08:36親、子供も、乞食同様の生活をした」。貧富の差は大きく、大正3年には、東京・神田明神に七五三のお参りに来た子供の装いに、三越や白木屋で350円から1000円かけて新調した高価な子供が目立つ、
2012-05-30 20:12:23(承前)小林商店(現ライオン)により子供向けの歯磨き「ライオンコドモハミガキ」(1ダース1円30銭で付録つき)が発売された、など豊かさを強調する記事も散見される。反面、貧しさの中で子供が家計の担い手として重要な位置づけにいたこともまた、事実であった。
2012-05-30 20:13:43東京の子供の職工の時給(平均)は13歳男子で1銭5厘、女子で1銭3厘で、労働時間は10時間が原則だが、実際は13~14時間労働(大正3年)であったり、貧困家庭の子供は家計の助けとして、ざると熊手を持ってドブをさらい、ガラスや金属のくずを集めてくず屋に売ると、
2012-05-30 20:16:34(承前)1日30銭くらいになったことや、東京の上野、浅草、日比谷公園などで、通行人に物を押し売りする少年少女が増加した、年齢は5~6歳から11~12歳で、生き会う人に追いすがって「お情けですから買ってください」と楊枝、洗粉、石鹸などを売りつけた、などの記事もある。
2012-05-30 20:20:19「確かに、大正になって文明が発達した。しかし大正の文化は、都会に住む一部の人たちの文化であった。当時、大分県の人口の八割を占める農村や漁村の人たちは、大正文化の恩恵はあまり受けなかった。
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