- jonathanohn
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《大正時代の子供文化》大正期になると、子供の名付け方に大きな変化が見られるようになった。それまでは、男の子なら、~吉、~蔵、~郎、~助、~作、~治といった名を、女の子は、イネ、ハナ、タケ、ウメのようなかな二字の名をつけられた子供が多かった。
2012-05-30 09:25:35それが一変して、男子では、「男、夫、雄、彦」などを末尾につけ、女子では「子」をつける名が多くなった。このような命名法の変化は、子供に対する親の考え方が変わってきたことを示すものだろう。親たちは、わが子が誰よりも「秀でた男」であってほしい、
2012-05-30 09:27:30(承前)誰よりも「美しい子(娘)」になってほしいと願ったわけである。かけがえのない我が子に期待をかけた親心のあらわれである。子供を一個の人間として見ようとする考えが働いている。強いていうならば、近代的な児童観、人間観の芽生えが感じられなくもない。
2012-05-30 09:29:10郊外の静かな通りにある中産階級の家庭の子供である6歳のA男の生活と、道ばたやよその家の門や橋の上などにかたまって騒いでいる子供たち――狭い道に工場で働く人々や植木の下職人たちの小さな家があり、そこに住む人々の子供である――の生活の対比。
2012-05-30 09:32:13A男の部屋は女中部屋に続いた質素な六畳一間。古本箱には子供の雑誌や絵本があり、鉄砲、背嚢、汽車、自動車、飛行機、大きな乗れる馬などのおもちゃがあり、これらをお客様たちは物珍しげにいじりまわす。しかしいつも鼻水をたらしている植木職人の家の子は、いつまでも遊んではいられない。
2012-05-30 09:34:16彼は食べ物のことや小さい弟妹の世話や、内職する母親を助けてときどき赤ん坊をおんぶしなければならなない。けれども彼は、おんぶするたびに一銭ずつもらって、駄菓子屋で自由に鉄砲玉や豆ねじなどの駄菓子やめんこなどを買うことができた。
2012-05-30 09:36:14ここに描かれている庶民の子供たちは、江戸時代の江戸の町人や職人の子供たちとほとんど変わらない生活をしている。長屋に住み、群れになって遊び、赤ん坊をおんぶし、小銭を持って駄菓子屋や屋台でおやつやおもちゃを買う。
2012-05-30 09:38:34これに対して中産階級の家庭の子供であるA男は、自由にお金を使うという生活は許されていない。買い物など無縁に育てられている。必要な物は与えられ、おもちゃや本など、庶民の子供よりずっと多く与えられているが、金勘定に敏感になることは退けられている。
2012-05-30 09:39:55この他、A男の生活に影響を与えたものに子供雑誌があった。この頃に盛んに創刊された子供雑誌もまた、子供の生活を変えていったのである。近代日本において児童文学作品を全国の子供に届ける出版形式としては、「単行本」よりも「雑誌」が圧倒的に多かった。
2012-05-30 09:44:23その中で彩色絵雑誌のさきがけとなったのは明治37年に児童美育会から発行された『お伽絵解こども』である。日本の近代における絵本史は、絵雑誌で開花した。当時の時代風潮や風俗の先取りがみられ、アールヌーボーなど新しい洋風な表現と伝統的な抒情性とが、興味深い共存をみせている。
2012-05-30 09:47:191920年代が子供の絵本の黄金時代といわれる所以は、絵画性、芸術性の優れたイラストレーションによるのは言うまでもない。第一次世界大戦後の日本の経済の繁栄により中産階級の市民が台頭し、近代生活を謳歌するようになった社会を背景に、芸術家たちは分野を超えた幅広い表現活動の場を見出した。
2012-05-30 09:49:20『赤い鳥』をはじめ、モダニズムの洗礼を受けた時代の美意識を映す芸術的な子供の絵本が次々と誕生し1920年代にその全盛を迎えた。よくいわれるように、『赤い鳥』の誕生は、アメリカ、ヨーロッパなどからの新しい文化潮流、思想潮流の日本への流入、とりわけ新しい教育思想の影響によって、
2012-05-30 09:51:37(承前)子供の個性と創造性を開放しようとする当時の教育的・精神的状況の高まりを背景としている。一口でいえば、いわゆる大正デモクラシーの高揚の中から生まれた、歴史的な産物である。http://t.co/YzlZwjNZ『赤い鳥』http://t.co/SkDVnYo5『子供之友』
2012-05-30 09:54:34http://t.co/bOlD6o8f『コドモノクニ』http://t.co/K11JlBCf『コドモアサヒ』http://t.co/yijOEoPW『金の船』http://t.co/UyHyetEU『模範家庭文庫』http://t.co/JfB2gW1m『画とお話の本』
2012-05-30 10:03:38@kingbiscuitSIU これですね。http://t.co/IJBdMhyi『キンダーブック』 なんだかんだいって、今でも続いているというのはすごい。大正時代創刊の雑誌で今でも続いているのは、他に『文藝春秋』『婦人画報』ぐらいですか?
2012-05-30 10:13:21ある人の回想。「百姓屋では、その仕事に人手がいる。わけても養蚕ともなれば、幼きものにも、それぞれ分担ができていた。私たちはそれを手伝うことを、もう当然のつとめと心得て、一生懸命に励んでいた。そのため学校の授業も休んで手伝うことがままあった。『こんどのお蚕が上がったら、
2012-05-30 10:07:49(承前)お駄賃に雑誌を買ってやろう』と父が言って励まされもした。学校の教科書は別として、その他の読み物などごく少なく、金拾戦の少年雑誌が欲しくて欲しくてたまらない時であった。実業日本社の『日本少年』には、有本芳水の旅の詩が連載されていた。・・・夢二風のさし絵も魅力だった。
2012-05-30 10:10:31大正時代には数多くの子供向け雑誌が創刊されたが、その中で『少年倶楽部』は大正3年11月、「面白くてためになる」というモットーを掲げて大日本雄弁会講談社から出版された。講談調の読み物が多く、教訓的な偉人のエピソードや有名人の訓話を中心とした紙面作りがなされた。
2012-05-30 10:18:47大正の子供にとっては、明治の子供の伝統が伝わるとともに、海外(とくに欧米)の子供の文化が入ってきて、西洋がそれまでよりもさらに近く感じられるようになった。「子供の遊びには道具の要らない遊びが多く、道具を使う遊びも、竹や木などで自分で作ったり、木の実や草の実や貝殻などを使って遊び、
2012-05-30 10:22:15(承前)店で買うものは、わずかしかありませんでした。子供の遊びで、道具のいらないものには、おにごっこ・かくれんぼ・かげふみ・馬とび・馬乗り・すもう・陣取り・こいのたきのぼり・木登り・段遊び(小学校の正門の石段をじゃんけんをして上り下りする遊び)・騎馬戦などの外遊びと、
2012-05-30 10:25:07(承前)うでずもう・すねずもう・かげ絵・なぞかけ・ねずみぐろ・手打ちなどの内遊びがありました。道具を使う遊びには、わまわし(桶の古くなったたがを竹で回す)・風車・むくろうち(ムクロジの実を使った遊び)・じゅるんだま鉄砲(ジャノヒゲの実を弾にして遊ぶ)・紙鉄砲・杉の実鉄砲・
2012-05-30 10:28:10(承前)ねん(先のとがった木の棒を地面に打ちこんで、相手の棒を倒して取る遊び)・縄とび・竹馬・べんざらかくし(べんざら=片皿は皿の小さな破片のことで、これを埋めて探す遊び)・汽車ごっこ・お手玉などがありました。
2012-05-30 10:30:42そして二人で遊ぶこの種の遊びには、スミレの花で首をからませて引く遊びや、カヤツリグサをさいてます形をつくるような遊びもありました。お店で買った遊び道具は、こま・羽子板・まり・すごろく(雑誌の付録)など、正月遊びの道具ぐらいだったようです。
2012-05-30 10:32:57