- yuu_yuu_to
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なぜなら、1.視座を無限にスライドさせ続ける事は出来ない(何処かで自我か神性の問題に突き当たる) 2.スライドが止まった時点で何らかの結論を要求される。
2012-05-31 01:14:59んで、私はどっちかというと視座が移動するタイプかつ、止まった時点で結論から完成しているタイプなのだろうなという感じがする。
2012-05-31 01:17:02思うに、人は論理なのか理性なのか自我なのか知らないけど、「何か」から完全に自由にはなれない。紙の上の問題ならいくらでも視座を動かすことができるが、自分はそうはいかない。どこに動いても「自分」はついてくる。
2012-05-31 01:22:30それを不自由と感じるか、必然と感じるかは人それぞれなのかもしれないけれど、人は「得体の知れない物」には恐れを感じるのが一般的なので、どこに動いてもぴったりついてくる「何か」に少なくとも違和感は感じているのだと思う。
2012-05-31 01:24:32ふむ。「論理的に論理で結論は出ない」という感覚は、おそらく「メタに視座を動かし続ける限りにおいて、立論が始まらないので結論は出ない」という事なのだろう。論理的に考えると。
2012-05-31 01:32:15しかし、それは何らかの問題(命題とか言うの?)に取り組む事を始めから放棄していることと同義になるのでは無いか、という点と、それが人間に可能なのか、という点が引っかかるけれど、それはこの件に対する「態度」の問題なのだろう。
2012-05-31 01:34:07自分なりに完全に理解は出来た。別の見方も出来た。視座の移動にどのようなプロセスや条件が必要なのかを考えてみると面白いかもしれないな。
2012-05-31 01:37:37デカルトは「我」で止まったし、スピノザは神を偏在させる事までは出来たが、その先は出来なかった QT “orange5109: なぜなら、1.視座を無限にスライドさせ続ける事は出来ない(何処かで自我か神性の問題に突き当たる) 2.スライドが止まった時点で何らかの結論を要求される。
2012-05-31 01:42:46さっきの「自動車事故が起こった」事について、「そもそもりんごなのか?」とは考えない。という事は、そこには何らかの条件が必要で、それは論理の構造と基本的に同じものだ。
2012-05-31 01:56:16「そもそも論」は「論理の視座の移動」であって、「そこには何かの条件がある」とすると、「視座の移動」をもって結論とするという事は言えそうだ。
2012-05-31 01:57:56@orange5109 携帯からはリンクが見れないので、帰ってから読みます。ちなみにあなたの論理が不快なんじゃなくて、あなたのスタンスが不快なんです。
2012-05-31 07:46:21「その人が好き」なのか「その人が好きな自分が好き」なのか。これは自分では中々認識出来ないものです。「なら別に同じでいいじゃないか」という人もいるかもしれませんが、区別のつかない感情が動機付けになって他者に何かを働きかける時には、色々と問題がおこる場合があります。
2012-05-31 08:14:30この辺も突き詰めていくと「私はあなたの事が好きな私が好き」「私はあなたの事が嫌いな私が好き」という所まで来ます。そして結局最後には「私」しか残りません。すると、これまで「優しさ」や「多様性」「尊重」という美辞麗句で飾っていた「大切なもの」は単なる「エゴ」の領分を出ない事になる。
2012-05-31 08:19:40@orange5109 ちなみにしんべーさん自体が不快なんじゃないですからね。基本的にしんべーさんのことは好きです。勘違いしないでくださいね。
2012-05-31 12:12:24これなあ・・ほんと、僕からすると噛み合ってないとしか言いようがないんだよ。単語の定義が違うことがすれ違いの根本なんだけど、そこが全く理解されない。単語の共通性を担保してるのは「辞書じゃない」んだよ。そこをわかってくれないと延々と馬鹿扱いされるわな。
2012-05-31 12:50:07