中国史における人口動態に関する議論

主として「お菓子っ子」さんと「るーでる@柏葉」さんによる、数時間に亘る長い議論です。二人ともお疲れ様でした。
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るーでる@柏葉(※パロディです) @rudel101

においても、似たような状況にあったのではないか、と考える次第である。ただし、私が、事例として挙げた時代と三國時代の背景、状況が異なっている以上、過度に敷衍することは危険ではないか、とも考える。

2012-05-31 09:53:27
るーでる@柏葉(※パロディです) @rudel101

以上です。すでにいくつかのサイトでも、似たことを指摘されていたように記憶していますし、中国史における常識を積み重ねただけとも思いますが。

2012-05-31 09:58:37
るーでる@柏葉(※パロディです) @rudel101

追記。三国時代後期の人口は蜀漢94万、呉が240万人、魏が440万人。晋の統一時に1600万人。やはり、不自然さがあるような。

2012-05-31 10:24:18
るーでる@柏葉(※パロディです) @rudel101

ただ、激減したのは間違いないです。戸籍外の人口をどう評価するか、という点で様々な意見が出てくるでしょうね。

2012-05-31 10:26:52
お菓子っ子 @sweets_street

@rudel101 中国の総人口が蜀を滅ぼした時の440万+240万+94万=774万人から20年もしないうちに1600万人に急増したことに関しましては、王朝交代後の民屯廃止が大きいと思います。皇室所有の荘園である民屯の人口は郡県の戸籍に編入され、さらに複数の郡県が新設されました

2012-05-31 10:32:28
るーでる@柏葉(※パロディです) @rudel101

@sweets_street 確かに、御指摘の点は考慮に入れるべきでした。しかし、それだけで二倍になるものでしょうか?私は、王朝に補足された流民のほうがより大きな影響をおよぼしたのではないか、と思います。

2012-05-31 10:39:27
お菓子っ子 @sweets_street

@rudel101 三国時代の戸籍外人口、つまり非課税対象者は国家の私兵である兵戸、国家の荘園の小作人である屯田民、豪族の抱える私兵や小作人、寄る辺を持たない持たない流民などですが、まず兵戸は呉を平定した後の大軍縮で大半が戸籍人口に編入されたはずです

2012-05-31 10:44:09
お菓子っ子 @sweets_street

@rudel101 流民に関しましては、屯田関連の記述から、人狩りをして流民を強制的に民屯に入れていたことが伺えます。また、賊や異民族を討伐するたびにその人口を兵戸や民屯に受け入れたりしていますね。これは曹操以来数十年も三国が取り組み続けたら、流民は問題にならない数だったかと

2012-05-31 10:48:49
るーでる@柏葉(※パロディです) @rudel101

@sweets_street 異民族に関しては曹丕の代に強制移住を行っていますし、晋書江統伝の記述からも、かなりの数に達していたことは疑い様がないと考えます。

2012-05-31 10:53:53
お菓子っ子 @sweets_street

@rudel101 そして豪族が所有する私兵や小作人についてですが、文帝期以降、賊の反乱が激減しています。賊の中核をなすのは私兵を持った豪族。政治に不満があっても私兵を使って挙兵できる豪族がいなくなったのでしょう

2012-05-31 10:54:04
お菓子っ子 @sweets_street

@rudel101 また、兵士の供給源も豪族の私兵団から、兵戸から供給される兵士に移行しています。魏においては、豪族の私兵団は次第に解体されて兵戸や屯田、戸籍などに編入されていったみたいです。豪族の私兵は平時は小作となる人達なので、後漢末に吸収した流民人口を吐き出したのでしょう

2012-05-31 10:57:10
るーでる@柏葉(※パロディです) @rudel101

@sweets_street ただし、おそらくは、数百万からの数(一千万以上だったとしてもおかしくない)で発生した流民を勢力に限界のある地方政権が、数十年でその大部分を把握できたとは、私は考えません。それは南北朝の事例からも推察できるかと。

2012-05-31 10:59:36
お菓子っ子 @sweets_street

@rudel101 晋書の食貨志によると、耕地を国家から支給されていない異民族も課税対象であったそうです。戸籍を持っていないと課税できないので、異民族も正規の戸籍に編入したのでしょうね

2012-05-31 11:01:34
るーでる@柏葉(※パロディです) @rudel101

@sweets_street そういったところから発する不満と、八王の乱、永嘉の乱で自らの実力に気付いた異民族が五胡十六国の遠因となるわけですが、これは、別の話ですね。

2012-05-31 11:06:50
お菓子っ子 @sweets_street

@rudel101 住民掌握の程度は、「国家が介入できない領域がどれだけあったか」で図ることができますね。南北朝の場合は西晋末の動乱から生じた流民を軍閥や門閥貴族などが吸収して、王朝を左右するほどの軍事力や経済力を築く基礎としました

2012-05-31 11:08:06
るーでる@柏葉(※パロディです) @rudel101

@sweets_street 流民が豪族の支配下に吸収される、というのは混乱期には三国時代に限らず、見られることではありますが、そういった豪族がどこまで、素直に人口を戸籍に戻したかも問題だと考えます。

2012-05-31 11:10:57
お菓子っ子 @sweets_street

@rudel101 流民というのは生産手段を持っていません。群れて略奪するか、定住して農耕や交易を行うか、誰かの保護下に入って養われなければ飢えて死にます。群れて略奪すると討伐されるし、定住して暮らせばいずれは王朝に服従するか討伐を受けるかの選択を迫られますね

2012-05-31 11:12:06
るーでる@柏葉(※パロディです) @rudel101

@sweets_street 流民が、生産手段を持っていない、というのはおっしゃるとおりです。しかし、貴方も仰るように、豪族の支配下に入ってその庇護を受けることが多く、その豪族がどこまで、地方政権や弱体な中央政権に従順か、わかりません。実際、西晋は短命に終わりましたし、南北朝も

2012-05-31 11:17:00
るーでる@柏葉(※パロディです) @rudel101

南朝、北朝を問わず、有力者の離反、造反に悩まされています。

2012-05-31 11:19:18
るーでる@柏葉(※パロディです) @rudel101

@sweets_street また、地方政権があたえることの出来る庇護には、統一政権と比して、自ずと限界があります。そうすると、把握しきれない人口は当然、出て来ますし、曹丕が行った異民族強制移住も、把握できる人口を増やす、という側面があったことは間違いないでしょう。

2012-05-31 11:23:23
お菓子っ子 @sweets_street

@rudel101 当時においては抱える人間の数=経済力、軍事力です。だから、「豪族がどの程度強力であるか」「政治が気に入らない時にどれだけ実力で抵抗するか」「実力で抵抗しないなら、中央政府、郡や県の役所の機能をどれだけ骨抜きにできるか」などが指標になるでしょうね

2012-05-31 11:25:41
るーでる@柏葉(※パロディです) @rudel101

@sweets_street 人間の数=国家などの力ということには、当然、同意します。中国が産業革命以前の世界において、随一の生産力、経済力を持っていたのは、大人口に支えられていたのが大きな要因ですから。

2012-05-31 11:30:07
るーでる@柏葉(※パロディです) @rudel101

@sweets_street ただ、ご存知のこととは思いますが、科挙実施以前の豪族などの地方勢力は、以後に比して、大きな力を持っていました。当然、中央政権の統制には限界があり、そういった要因は豪族の力を無視し得なかった三国時代にもあります。

2012-05-31 11:33:47
お菓子っ子 @sweets_street

@rudel101 あなたがツイートされたとおり、南北朝時代は豪族や軍閥の造反が非常に多いです。その基礎は多くの流民人口を吸収して築いた経済力と軍事力ですね。だから、三国時代の場合も豪族や軍閥の造反の頻度と強力さに注目すれば、どれだけの人口を吸収したかを図ることができます

2012-05-31 11:33:02
るーでる@柏葉(※パロディです) @rudel101

@sweets_street先程、仰っていた 文帝以降は、豪族の反乱が少ない、ということですね?ですが、魏の後を襲った晋を揺るがせた八王の乱を考えれば、やはり、戸籍外人口はまだまだあったと見るべきではないでしょうか?異民族傭兵が主力だったとは言え、こういった大乱を起こすには、

2012-05-31 11:40:41