少なくとも、党錮の禁で有罪判決食らえるぐらいのポジションではありますよね RT @my_birthday0128: 周昕が陳蕃の弟子という大事なことを失念してた。周昕って清流派?
2012-06-16 04:18:16@sweets_street 太尉府に辟召されたのがいつかはわかりませんが、出世はだいぶ遅れていたかもしれませんね。
2012-06-16 04:26:42陳蕃が死んだのが168年だから、その時点で30歳だとしても、190年(52歳)で太守ならそんなに遅い出世ではないかと RT @my_birthday0128: @sweets_street 太尉府に辟召されたのがいつかはわかりませんが、出世はだいぶ遅れていたかもしれませんね。
2012-06-16 04:33:19@sweets_street 高第に挙げられてるので出世スピードはもうちょっと早くてもいいかなと思ったんですが、こんなもんですかね
2012-06-16 04:46:51もっと出世早かったら、九卿ですよ(´・ω・`)?三公も射程距離 RT @my_birthday0128 高第に挙げられてるので出世スピードはもうちょっと早くてもいいかなと思ったんですが、こんなもんですかね
2012-06-16 04:48:17@sweets_street 今ちょっと調べてみましたが、法雄は106年に太傅張禹に辟召されて、高第、県令、刺史を経て115年に太守になってました。刺史時代に大きな功績を挙げてるので単純比較はできませんが、十年くらいで太守になる例もあったみたいです。
2012-06-16 05:04:03@sweets_street そもそも稍遷なので丹楊太守になる前にいくつか太守経験している可能性もありますし普通の出世だったのでしょうけど。
2012-06-16 05:04:32@my_birthday0128 孝廉や茂才になるのも、だいたい州郡の重役を経て40前後になってからですし。張禹が太傅になったのは106年で、法理雄が刺史になったのは110年だから、4年で刺史になれるぐらいの年齢だったんじゃないかなと。そうじゃなきゃ貴族並みの早さですよ
2012-06-16 05:15:06@my_birthday0128 荀爽や陳紀みたいに、禁錮が解けてから一気に昇進した可能性もありますが、いずれにせよ年齢やキャリア相応の昇進かと思います。30代で二千石になった曹操や楊彪の方が珍しいんですよ(´・ω・`) 普通は60代で退官する前に太守になれたら出世したほうだし
2012-06-16 05:27:32@sweets_street 太守がかなり重要な高官であることは忘れられがちですよね。史書にたくさん出てくるものだから。そもそも史書にたくさん出てくるということ自体がその重要性をあらわしてるんですけどね。
2012-06-16 05:37:08@my_birthday0128 郡太守は現代の日本では県知事に相当しますが、後世にちょい役で名前だけでも伝わるような県知事はあまりいないと思います
2012-06-16 05:47:15周の時代から、ずーっと5人のリーダーは伍長って決まってるのよ RT @henna_ikimono: @sweets_street だから伍長って言葉なのかー!
2012-06-16 06:51:58@1059kanri どこの軍隊でも、大抵は5人前後の班(チーム)が最小編制単位になりますね。この図表の中で班を一つ上の分隊規模としたのは、全体の兵力数が少ないから
2012-06-16 07:00:31@HighTaka 当時は軍隊の規模が小さいですからね。2000人程度の軍が師団相当の最低戦略単位なので、全体的にランクダウンしてみました
2012-06-16 07:06:59@1059kanri 現代の軍隊は班(5人前後)-分隊(2班。10人前後)-小隊(3個~4個分隊。30人前後)-中隊(3~5個小隊150人前後)-大隊(3~5個中隊。500人前後)-連隊(3~5個大隊。2000人前後)-旅団(2~3個連隊。5000人前後)-(続く
2012-06-16 07:15:19@1059kanri 師団(2~3個旅団。13000人前後)-軍団(2~3個師団。35000人前後)-軍(2~3個軍団。70000人以上)-軍集団(2個軍以上)になりますね
2012-06-16 07:20:34