Intellectual History再訪

2012年7月6日、7日に立教大学にて開催されるシンポジウム「人知の営みを歴史に記す 中世・初期近代インテレクチュアルヒストリーの挑戦」に向けて、Intellectual Historyをめぐる議論が再び活性化してきています。その模様をまとめ中。
人文 思想史 哲学 歴史
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Kuni Sakamoto @kunisakamoto
ブログ更新。「書かれるべき観念史など何ら存在せず、存在するのはただ、観念を用いるさまざまな主体、および彼らがそれを用いたさまざまな状況や意図に焦点を合わせた歴史のみ…」「スキナーによる思想史の方法」http://t.co/yPTjQz3l
Kuni Sakamoto @kunisakamoto
立教シンポジウムの準備をしないといけない。「インテレクチュアル・ヒストリーの醍醐味を味わってもらう工夫」か。
Kuni Sakamoto @kunisakamoto
インテレクチュアル・ヒストリーの醍醐味を確認するためにこの珠玉のエントリを読みかえす。 「キャサリン・パーク ロレイン・J・ダストン 『反−自然の概念 十六、七世紀イギリス・フランスにおける畸型の研究』」(「石版!」)http://t.co/StWP4p7Z
Kuni Sakamoto @kunisakamoto
ヒロ・ヒライがこちら(2010年3月15日付けの日記)でインテレクチュアル・ヒストリーについて語っている。http://t.co/gI8GiYYf
@muto_kh
「精神史研究とは歴史学と哲学のあいだに存在し、歴史学者の時間軸に対する感性と、哲学者のテクストのなかに入りこむ浸透力のふたつを同時に必要とするジャンル」『ミクロコスモス』巻頭言 http://t.co/aOEyb8S2
@muto_kh
「インテレクチュアル・ヒストリーは、地を這うようにアーカイヴやその他の資料を見ていく史学的な作業と、テクスト分析のより思想的な作業が交錯する不思議な領域」(2006年4月7日)http://t.co/wij76Z8y
Kuni Sakamoto @kunisakamoto
これを思い起こそう。 intellectual history をめぐる書き込み http://t.co/ZcT0ikHl
@muto_kh
「一昔前ならユングとかエリアーデとか、今なら記号論とか現代思想とか、こういうのを16世紀や17世紀のテクストに持ち込んで「整合性ある解釈」をでっち上げたところで、それは流行ものの時代錯誤でしかありません」(2001年8月22日)http://t.co/Cr4ScdSg
@muto_kh
「一見して「とっぴなこと」を言っているように見える表現やアイデアも大抵の場合は読み手が気がついていない知の伝統に則ったものであることが理解されると思います。そうした上で始めて、どの部分がオリジナルであるのかが分かるのです」(同前)http://t.co/Cr4ScdSg
@muto_kh
「ボイルもそうですが、よっぽどオリジナルな視点がないかぎり、テクストが英語で読めるからという安易な理由では、なかなかまともな研究は出来ないということを吉本さんとの共同研究によるボイル論文で証明しました」(2011年11月28日)http://t.co/UvsJRs76
@muto_kh
「歴史家に問題なのは、[...] 新鮮なマテリアルを発掘して切り出し、それを効果的に見せることで、そのマテリアルや扱われるテーマが触れる歴史的な事実や意義を浮かび上がらせれば良いのではないか?」(2006年9月11日)http://t.co/3ZCQ6brf
@muto_kh
「古いテクストに内包されるコスモスやロゴスを読み解く時に、この時代錯誤を許すか・許さないかが、例えば哲学と哲学史の違いを生みます。哲学史とは何も「編年体」で物事を記述する研究ではありません」(2002年1月31日)http://t.co/Snqtah6Z
@muto_kh
「史学的&文献学的にもアナクロニズムを徹底的に排除した上で、そのテクストを書いた人間がどういう風に(どんなロジックで)ものを考え、どういう背景や伝統に従って、自分の考えを論述しているかを分析していこうとする態度」(2001年1月30日)http://t.co/Snqtah6Z
Hemmi Tatsuo @camomille0206
精神史。このように方法の問題が問われるのだろうな。しかし、では一方で何が精神史の対象(objet)たりえるかの議論が掘り下げられないと。週末の18世紀学会シンポで日本の民衆知の実態が明晰に述べられて喝采を浴びたそう。それも〈知性〉の形態でありその表現であろう。
Hemmi Tatsuo @camomille0206
3月のパリENSでの精神史導入の試み。D・ロッシュの弟子を代表してリルティが歴史家たちに行ったシンポは残念ながら不首尾に終わった。精神史の定義にすら一致しえなかったパネリストの人選ミスもあろうが、この方法的概念が新たにいかなる〈史料〉を対象に見出すか、疑問の声が多かったのは事実。
Hemmi Tatsuo @camomille0206
リルティはその場で経済史家ジャン=クロード・ペロの『エコノミー・ポリティークの精神史』(1992)を終始援用。同書はケネー全集校訂者たるペロによる未邦訳の大著だが、精神史という総合的な概念を仏歴史学に導入した先駆。コイレとカンギレムの名を冒頭に挙げる。
Hemmi Tatsuo @camomille0206
同書の議論のひとつのポイントが、無時間的かつ同質的な大文字の観念の連続と反復の抽出を目指す観念史への批判であった(ex:「存在の連鎖」など)。その対蹠物としての精神史は、異質的かつ非連続なコーパス、あるいはコーパス内に口を開けた裂け目を見出す。調和や調停よりも対立と抗争、葛藤へ。
Hemmi Tatsuo @camomille0206
その過程において、扱う資料は大文字の作家のテクストの釈義に留まらず、非文字的な表象を含む同時代の無数の副次的・二次的文献に拡大する。均質性に還元されない地域、時代毎の差異と多元性が強調されていく。それを公共圏で支えた媒質の制度化(アカデミー、書物、大学、サロン…)が問題となる。
Hemmi Tatsuo @camomille0206
18世紀研究という特殊文脈に限れば、リルティの主導する精神史再興は、明確にJ・イスラエルの〈ラディカル啓蒙〉という概念、およびそれを支えた方法への批判を射程として見据えている。
Hemmi Tatsuo @camomille0206
その皮切りとなった議論は、以下に。http://t.co/OM75UYWW
Hemmi Tatsuo @camomille0206
時代と国境を超え、初期近世から啓蒙18世紀に汎ヨーロッパ的に拡大したとされる「スピノザ主義=啓蒙ラディカリズム」。広い文献渉猟の末にこの概念を提唱したJ・イスラエルの議論であるが、それはまさしく新たなる〈観念史/観念論〉の再来。「唯物論の観念論的歴史」だ、とリルティ。
Hemmi Tatsuo @camomille0206
論文の前半は、イスラエルのいう「精神史」とは何かに関し、リルティがその規定の甘さを批判するもの。「精神史」という概念に対するリルティの理解は、おおよそここでまとめられている。
Hemmi Tatsuo @camomille0206
これに対するイスラエルの反論はLettre clandestine,2011, no.19に。
Hemmi Tatsuo @camomille0206
ところで、連続性ではなく非連続性、同一性よりも差異を強調するリルティの議論の射程には、無視できないもう一つの方向があった。それはまさしく歴史的著作の解釈の問題。イスラエルの〈同質的〉精神史に対し、彼が打ち出すのは、フーコー、デリダ、ラカプラによる〈差異と異質〉の精神史の議論。
Hemmi Tatsuo @camomille0206
そもそもENSでのリルティの発表タイトルは、"Rabelais est-il notre contemporain ? Histoire intellectuelle et herméneutique critique"。受容者による生産的誤読の意義を積極的に捉えようとするもの。
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