アートシーン(2012年下半期)

2012年7月からの、展覧会その他美術に関するツイストを集約。
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sjo k. @sjo_k

続いて練馬区立美術館の棚田康司展へ。木彫の少年や少女の全身像は「悪い意味で」不気味で、嫌悪さえ感じた。この感覚の源を懸命に探る。まず、棚田の作り出す像が、あまりに生気に満ちていること。細身だが骨格や中の臓器の存在まで感じさせ、皮膚は血が通っているかのように丁寧に着彩されている。

2012-10-14 18:32:46
sjo k. @sjo_k

一方、作品はそのようにあくまで生気を湛えながら、(彫刻なので当然)私と相互作用することは全くない。つまり私は、生身の他者(と認識させられてしまうような彫像)との間で「ゼロ・コミュニケーションの地点」に立たされてしまう。この体験したことのない「遣りづらさ」が、嫌悪の原点ではないか。

2012-10-14 18:32:59
sjo k. @sjo_k

いくつかの彫像の目をじっと見つめていると、「私」が跳ね返されて、突き付けられるような感覚を覚えた。相手が私を受け止め、反応することのない、「ゼロ・コミュニケーションの地点」では、相手に向かおうとする「私」が剥き出しになり、しかもそれが跳ね返され、自分に突き付けられる刃になる。

2012-10-14 18:33:12
sjo k. @sjo_k

だが、何回も作品を観るうちに「慣れ」が生じ、私の中で、彫像に対する<無生命の了解>が完成された時、嫌悪感は呆気なく消失した。「生身ではない他者」たる彫像との間には、もはや「ゼロ・コミュニケーションの地点」は発生し得ないからだ。そしてその時、私が棚田の作品に観るものも消失した。

2012-10-14 18:33:21
sjo k. @sjo_k

次に、トーキョーワンダーサイト本郷の「アートの課題2012 in the AIR」へ。楽しみにしていたチャン・ヨンヘ重工業の新作は、たしかに相変わらずカッコよかったのだが、これもまた「強度不足」に思えた。楽曲もスクリプトも、クールすぎる、というか、スムースすぎる、というか…。

2012-10-14 18:33:38
sjo k. @sjo_k

最後に原美術館の「ホームアゲイン」へ。残念ながら、印象的な作品は一つもなかった。以下、あくまで一般論として言うと、やはり言葉以外の手段で表現を行う(と決めた)以上、言葉の助けなしに鑑賞者に何がしかのインパクトを与えられないような作品ではいけないのだろうな、と考えさせられた。

2012-10-14 18:33:57
sjo k. @sjo_k

東京都現代美術館の「アートと音楽」「風が吹けば桶屋が儲かる」へ。タイトルといいチケットに刷られたカンディンスキーといい「総合アドバイザー 坂本龍一」といい、何か「さもしさ」を感じて期待値が低かった前者は予想以上に面白く、タイトルの奇抜さから結構期待していた後者は今一つだった。

2012-11-04 21:24:22
sjo k. @sjo_k

「アートと音楽」、第一室のセレスト・ブルシエ=ムジュノ「クリナメン」に、いきなり引き付けられる。大小さまざまな陶器の皿が、弱い水流の立つ青いプールに浮かぶ作品。水流に乗った皿どうしがぶつかって、高低さまざまな音を響かせる。これは「アート」の端的な一形態の見事な表現だ、と直感した。

2012-11-04 21:24:31
sjo k. @sjo_k

皿洗い中に立つ美しい音にハッとすることは、私にもある。それを「日常にふと現れる脱日常」と呼ぶならば、作家は、最適な装置を用意することで、「日常」では偶然・僅かな時間しか持続しない「脱日常」を引き寄せ、固定化する。この「脱日常の固定化」は「アート」という行為の本質の一つに違いない。

2012-11-04 21:24:44
sjo k. @sjo_k

ケージ「4分33秒」の「演奏」の模様を、1回目はピアニストを固定で、2回目は観客を流して撮った(1回目は外の嵐の音が入り、2回目は基本的に無音)、マノン・デ・ブール「二度の4分33秒」も面白かった。ある意味「今更」のこの「曲」を採り上げて「作品」にするにはどうすればいいのか。

2012-11-04 21:25:38
sjo k. @sjo_k

ブルシエ=ムジョノの作品は、日常の中の脱日常の美しさを増幅して見せた、と言うこともできよう。そしてデ・ブールの作品は、「4分33秒」という作品が含んでいる思想や諧謔の精神を、やはり増幅して見せているように思えた。この「増幅」もやはり、「アート」の持つべき要素の一つだと感じた。

2012-11-04 21:25:51
sjo k. @sjo_k

そして、相変わらず厚みのある常設展では、亀倉雄策と横尾忠則に強く引かれた。どちらも同じ宣美(ポスター)という媒体でありながら、悪趣味で過剰で説明的な横尾と、端正で簡素で象徴的な亀倉は、まさに好対照をなす。しかし、両者ともに疑いなく「美しい」。そして「剥き出しのセンス」に目が眩む。

2012-11-04 21:26:39
sjo k. @sjo_k

島袋道浩「人間性回復のチャンス」「贈り物:猿のための展覧会」は、相変わらずの「島袋ワールド」で(何度見ても)嬉しい。ピーター・ハリー「地下に導管のある長方形のセル」は、目の覚めるような色と色面分割が印象的。小沢剛の「地蔵建立」シリーズも、消化しきれていないが、とても魅力的だった。

2012-11-04 21:26:52
sjo k. @sjo_k

新海覚雄の「国鉄労働者」シリーズは、半年前に平塚市美術館で木下晋の肖像画を見ている時に立ち上がった、「肖像画は誰のために描かれるのか」という問い(https://t.co/2RCVajz1)を想起・反復しながら観た。が、疲労が回っていたらしく、思考がほとんど進まなかった。

2012-11-04 21:27:00
sjo k. @sjo_k

東京都写真美術館の「写真新世紀 東京展2012」へ。浜中悠樹の作品に足を止めさせられた。樹木を見上げてその生命力に打たれることなら私にもあるが、浜中の写真は、その印象を背景の処理やボケ表現によって、見事に「増幅」(https://t.co/8R5W91NE)させていると感じた。

2012-11-11 20:01:46
sjo k. @sjo_k

写真美術館、「操上和美 時のポートレイト」には残念ながら惹かれるものは一つもなかった(今更アレブレボケを並べたてられてもなあ、という印象)。もう一展の「機械の眼」には、いくらか足を止めさせられる作品があったが、全体的に低調。もしかすると、今日は私が「閉じて」いたのかもしれない。

2012-11-11 20:01:55
sjo k. @sjo_k

オペラシティアートギャラリーの篠山紀信展へも。なんというか、「興行」という雰囲気だった(これは、写真家としての篠山がどうかという話では〈ひとまず〉ない)。刺青の男の集合写真と、王貞治の眼力が残像のように脳裏に残っているくらい。あと、高岡早紀のおっぱいが大きくてたまげた。

2012-11-11 20:02:04
sjo k. @sjo_k

オペラシティの収蔵品展も低調。やはり今日は自分の感受性が落ちているのかもしれないなあ…と思っていたところ、最後の最後、榎木陽子展には引き付けられた。「色鮮やかな絶望」。ここまで強烈で直線的な「負」の情念を作品から投げつけられる経験は思い返してもあまりない。凄まじかった。

2012-11-11 20:02:15
sjo k. @sjo_k

国立新美術館のリヒテンシュタイン展へ。何というか、基本的には「趣味が合わなかった」。期待していたルーベンスは、超大型の作品が並ぶも、東郷青児で(白黒の小さな作品を)見た時のような衝撃を残念ながら受けなかった。画面が大きくなって、エネルギーが散り散りになってしまった、という感覚。

2012-12-08 23:49:43
sjo k. @sjo_k

しかし、全く「収穫」がなかったわけでもない。フランチェスキーニの女体像の「肉感」には圧倒された。あと、かつて隙さえあれば口説きまくっていた元同僚の女の子に雰囲気が似た女性の肖像を見つけて(心の中で)ニヤニヤしてみたり。それにしても人が多く、心を整えて作品に向かうのは難しかった。

2012-12-08 23:50:09
sjo k. @sjo_k

それから、ヴァルトミュラーの高度に写実的な静物画に魅了され、考えさせられた。私は、写実性の極めて高い絵画に快の感情を覚える。その源を必死に手繰ると、(自分でも驚いたが)「ものまね紅白歌合戦」に行き着いた。手練れの「モノマネ」から得る快と、絵画の写実性から得る快は、おそらく同質。

2012-12-08 23:50:19
sjo k. @sjo_k

両者に共通するのは、端的に言えば「そっくりさ」、だろう。敷衍すれば、ふたつ(以上)の別のものが、<別のものであるにもかかわらず>、同じのものに見える、ということである。「ふたつなのにひとつ」であるということ。この不可思議さから生じる「驚き」こそが、快の感情の源なのではないか。

2012-12-08 23:50:31
sjo k. @sjo_k

ところで私は、写真を見て、その「写実性」に驚き、そこから快の感情を得ることはない。これは何故か。絵画と写真で何が違うのか。手掛かりは、私たちが「写実絵画」とは言っても、「写実写真」とは言わないことにあるのではないか。つまり、写真の写実性は自明のものだが、絵画のそれはそうではない。

2012-12-09 00:04:51
sjo k. @sjo_k

言い方を少し変えると、絵画の場合、作品(に描かれたもの)と実在の(描かれた)対象が<別のもの>であるという「非同一性の了解」が生じやすいのに対し、写真ではそれが生じにくい。これは第一に、私が写真術というテクノロジー(の大まかなしくみ)をすでに知っていることに起因するだろう。

2012-12-09 00:05:08
sjo k. @sjo_k

そして第二に、おそらく写真は(それが、よくよく考えてみれば、印画紙にプリントされた、まごうことなき「物質」であるにもかかわらず)、絵画のような物質性、「もの」としての存在感を有していない。このことも、「非同一性の了解」を生じにくくする要因となっているように思える。

2012-12-09 00:06:56