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例えば「おはよう」という語を書こうとして一瞬その「お・は・よ・う」という音の連鎖の意味を見失う瞬間がある。では次の瞬間私たちは仕方なく、或いは積極的に新たな語を発明するかというと結局紙の上に「おはよう」と書くしかないのだが・・・
2012-08-01 02:51:36![](https://tgfile.tg-static.com/static/web/img/placeholder.gif)
少なくともその時最初に書こうとした「おはよう」と一瞬の躊躇いの後に書かれた「おはよう」との間には文字通り厚みのない陥没が挟まりその厚みのない一種の空白に無限に有り得る音列の騒めきが広がっていることを知る。多分ただこの厚みのない薄さのに「唯一の自由」の場が広がる。とはいえしかし・・
2012-08-01 02:57:32![](https://tgfile.tg-static.com/static/web/img/placeholder.gif)
要するに私たちが住み着くのはその空白にではなく、その、「おはよう」という文字であって、見たところ何も事態は変ってはいなのだが、そこには「同じであること」の雪崩れが属性化され、もはやそれは同じ「おはよう」ではないこと、言わば「おはよう」という文字の「分身」がそこに認証される。等々
2012-08-01 03:06:55![](https://tgfile.tg-static.com/static/web/img/placeholder.gif)
D/Gがカフカ論で示した「マイナー言語」の問題。「システムだけが世界を成しているのなら誰もシステムからは自由になれないのか?」と素朴に問いかけられた若きフーコーが答えた応答。「システムの分身化、その身振りの上に一瞬、私たちの自由が生起し煌めくことになるのです」と答えたことについて
2012-08-01 03:13:52![](https://tgfile.tg-static.com/static/web/img/placeholder.gif)
「おはよう」を見失う一瞬私たちは軽い「狂気」の中にいる。すぐ後に取り戻された「おはよう」という言葉はだから少しばかし狂気の薄い被膜を染み込ませている。マイナー言語とは狂気の薄い被膜における言葉であり、また、自由とはその厚みのなさに於ける「自由」であり、そしてそれが「散文」である?
2012-08-01 03:21:51![](https://tgfile.tg-static.com/static/web/img/placeholder.gif)
不意に、同じままなのに見知らぬ言葉の中で目覚めること。例えば蓮実重彦さんが志賀直哉の「日本、国語フランス語化」論(?)について語ったこと。逆に言えば志賀直哉はあまりに完全に「おはよう」という語の完璧さに住み着いてしまったが故に、分身性のない言葉の凝固に倦み始めていたのだ、と?
2012-08-01 03:26:35![](https://tgfile.tg-static.com/static/web/img/placeholder.gif)
後藤明生さんが『この人を見よ』の中で一瞬広げて見せた太宰治vs志賀直哉の有名な論争。言うまでもなく太宰の口ぶりは論理のない論争である。要は彼は、「おはようはおはようではない」という奇妙な同着論理において志賀直哉に挑みかかる?「おはようがおはようだなんて、アンタは頑迷な悪人だ!」
2012-08-01 03:31:27![](https://tgfile.tg-static.com/static/web/img/placeholder.gif)
アルトーの『神の裁きとけりをつけるために』のテープを聞いてみること。可能なら今入手できるクリアな音源ではなくて最初の録音で。ともかく人はその叫び回る声にすぐ彼の「狂気」を感じ取るのだが、しかし・・・
2012-08-01 12:46:05![](https://tgfile.tg-static.com/static/web/img/placeholder.gif)
重要なのはその読み上げられるテクストが至極まっとうなフランス語で書かれその発話が俳優出身者らしく模範的なアーティキュレーションで発話されむしろ一般のフランス人より鮮明であることだ。アルトーの狂気があるとしたらそれはそのことにある。つまり言語破壊にではなく、言語の鮮明さ故の分身化に
2012-08-01 12:55:40![](https://tgfile.tg-static.com/static/web/img/placeholder.gif)
晩年アルトーは訪ねてくる友人に「新たな詩」を発見したと言ってルイス・キャロルの詩(アリス?)を読み上げた。彼が新たな詩と呼んだのはその朗読法だった。彼は鉄の火かき棒で叩き割るかの凄まじい力で木の机を叩きながら恐らくは『神の裁き…』と同じような叫びの口調でそれを朗読したのだった
2012-08-01 14:10:19![](https://tgfile.tg-static.com/static/web/img/placeholder.gif)
ビュトールの晩年と書いたので彼が亡くなっているととった方もいるようです。「晩年」は別に死者に関して言われる言葉ではないのですが、誤解があったらどうも。しかし日本では珍しくありませんがビュトールはフランスでは異例にも生前に全集を出し始めている。これは何でしょうね。
2012-08-02 00:54:02![](https://tgfile.tg-static.com/static/web/img/placeholder.gif)
下司な話ですが「今の若い人」が本を読まなくなったとは一向に思いませんが「買わなくなった」のは統計上確か、売れない上に経費の問題で本が高くなり購買意欲を削ぐという悪循環。しかも翻訳が研究者の業績として評価が下げられビュトールに限らず訳が出なくなる恐れがあるという事態も有り得るのか
2012-08-02 01:09:51![](https://tgfile.tg-static.com/static/web/img/placeholder.gif)
まあ文科省構想では英語が出来ない「国際人」は有り得ないという方向の様ですから英米系の本の翻訳はそろそろやめても誰も困らなくなるのでしょうが、仏語ドイツ語イタリア語スペイン語ロシア語等々は未だそうも行かないでしょうから、これは一種のソフトな封鎖ということになるのでしょうか。
2012-08-02 01:15:26![](https://tgfile.tg-static.com/static/web/img/placeholder.gif)
・・・もっともそれらの諸語の本も最近では英訳の速度の方が邦訳より速く熱心になりつつあるようなので、英語が読めるということで消化されて行くという可能性があるとすれば、心配は杞憂かもしれません。
2012-08-02 01:43:10![](https://tgfile.tg-static.com/static/web/img/placeholder.gif)
端的にメモ。菅原道真?が「和魂唐才」と言った時「唐才」は「学的知一般」を意味する一方「和魂」は「日本的文化・知」といった含みは一切なく端的に「生活の知恵一般」を意味した(花田清輝)。
2012-08-02 02:58:55![](https://tgfile.tg-static.com/static/web/img/placeholder.gif)
花田清輝『小説平家』を読み始めるが全くノラない。昔読んだ時はもっと面白いと思っていた気がする。歴史に仮託した政治寓意小説はつまらない。安部公房『榎本武揚』が小説も戯曲も安部さんの仕事の中でとりわけ詰まらないのも同じこと。ともかく最後までざっと読み飛ばして、予定変更。
2012-08-02 18:33:54![](https://tgfile.tg-static.com/static/web/img/placeholder.gif)
詰まらないと言いつつも壇ノ浦入水の幼童安徳天皇が実は宝剣とともに密かに脱出して硫黄島に居住した説とかは無知な僕には面白くはある。中世初期に硫黄島が地理的に認識され和名を持つ居住者がいたことなども。或いは霊異探索はともかく、富士の風穴・人穴などへの探検が臣下に命じられていたとか・・
2012-08-02 19:38:26![](https://tgfile.tg-static.com/static/web/img/placeholder.gif)
安徳天皇の母は建礼門院、生き延びた建礼門院は都に。『平家物語』は彼女の末期で閉じられる訳で、誰もが知っているだろう後白河法皇の言葉は何かイカスと思って暗記している。「女御殿には六道なべて御覧じしとかや、あやしうこそおぼえけれ」。これまた記憶なんで不正確。因にテレビは見てません
2012-08-02 19:49:04![](https://tgfile.tg-static.com/static/web/img/placeholder.gif)
周知のように花田さんは『平家物語』の著者を海野小太郎幸長とする説を採る。それはそれとして、幸長が清盛と刺し違えようと叡山を脱出する際、煮た漆の汁を身体中に塗って「らい」を装い、しかし余りの痛みに思いを遂げぬまま東に下るという話とか。しかもその病の偽装を中国の故事の知識から得たとか
2012-08-02 20:01:54![](https://tgfile.tg-static.com/static/web/img/placeholder.gif)
瀬戸内海に沈んで遺体の見つからなかった安徳天皇及び三種の神器の一つである宝剣は後鳥羽院に始まる続く天皇の不安と疑心暗鬼の源となり、当時からすでに安徳生存説、宝剣秘匿説があって彼らを不安にしたという・・・これまた日本史好きには周知だろう「秘話」とか。ま、軽薄な楽しみ方はしています
2012-08-02 20:09:01![](https://tgfile.tg-static.com/static/web/img/placeholder.gif)
安徳入水とかの場面はこれまた子供の時見た小林正樹の映画『怪談』の中の「耳なし芳一」の映像として浮かぶ(「茶碗の中」の江戸城の夜の廊下がひどく怖かったのを憶えている)。『地獄』といい『東海道中四谷怪談』といい、何故こんな映画ばかりを見に連れ回されたか、よく憶えていない。
2012-08-02 20:19:52