- jonathanohn
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1667年6月、オランダ海軍のデ・ロイテル提督によるメドウェイ川奇襲攻撃に対して、イギリス海軍はなすすべを知らなかった。そのころ、ピープスのもとへ手形の支払いを頼みに来た数人の船乗りは、もしも手形が現金に替わらないのであれば、
2012-08-02 14:07:44(承前)二度と生命の危険を冒してまでオランダと戦うのは御免だといい、換金を要求している。港町のあちこちで、餓死寸前の船乗りが見かけられたということである。
2012-08-02 14:08:54ネルソン時代すなわちトラファルガー時代ともいえる18世紀末から19世紀初めにかけての時代、イギリス海軍の組織ないし階級制は、現在のように世界各国共通とも考えられるような整然としたものではなかった。それは各軍艦の大きさと機能から自然発生的に作られたもので、
2012-08-02 14:21:41(承前)海軍の組織が大きくなり常備化されるにつれて、軍艦の級別分類による同型艦の規格化が進み、乗組員の編成もそれに応じて次第に系統化され、海軍部内での階級序列が明確にされざるを得なくなったものであろう。
2012-08-02 14:22:24いわゆる戦列艦はポスト・シップ(postship)と呼ばれたところから、その艦長をポスト・キャプテンと呼んだ。戦列に入れない艦の艦長をも儀礼的または通俗的にキャプテンと呼んだようではあるが、正式の名称はコマンダーであった。
2012-08-02 14:25:18また提督からミジップマン(midshipman)までを総称して、海軍士官、すなわちオフィサーとしていた。ミジップマンは、今日でいう少尉候補生である。さて、この頃の軍艦で艦長に次ぐ権力者はルテナント(lieutenant)であった。艦長を佐官とすれば、ルテナントは尉官である。
2012-08-02 14:28:15帆船時代のイギリス海軍の階級で、分かり難いものにマスター(master)がある。古くは艦長に次ぐ航海長という意味で、尉官より上位におかれたこともあるが、18世紀のこの時代にはいかんに次ぐ准士官の地位だったようである。
2012-08-02 15:39:00キャプテン・クックは、志願兵として海軍に入ってから4年後にマスターに昇進したが、この場合は准士官というよりむしろ下士官に近かった。マスターの任務は、港から港へ艦長の命令通り航海し、帆の操作を指揮して艦を自在に操るという技術的なものであった。
2012-08-02 15:40:58とくに戦闘中の操船はマスターの手中にあった。それは、徴用された商船に乗り込んだ軍人キャプテンの指揮下で操船の責任を持ったのが本来の船長、すなわちマスターであったというシンク・ボートの昔にさかのぼって考えれば納得できるのではないだろうか。
2012-08-02 15:42:17アドミラルの語源はアラビア語の「海の指揮官(amir-al-bahr)」に由来するといわれている。良―ロパでいう暗黒時代、海はムスリムの跳梁するがままになっていた。約700年にわたるその支配は、ヨーロッパ人に対してアラビア語の影響を多く残した。
2012-08-02 15:47:08イギリスでアドミラルが公式の称号として使われたのは1297年である。それまでのイギリス艦隊司令官は、justice、leader and governer、keeper of the sea-coast 、
2012-08-02 15:50:28(承前)captain of kings sailors and mariners of of the Cinque Ports などと呼ばれていた。
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