2012年8月5日 ヒロシマ青少年平和の集い 松本トミ子さんの被爆体験講話

広島平和記念式典に先立ち、8/5に中高生中心の「ヒロシマ青少年平和の集い」が開催されました。 その場での松本トミ子さんの被爆体験講話をツイートしましたので、まとめさせていただきました。 なお、昨年も被爆体験をお聞きしまとめていただいています。 よろしければご覧ください。 続きを読む
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中妻じょうた 板橋区議会議員 立憲民主党 @nakatsuma

さて昨年同様、お伺いした被爆体験講話を連続ツイートさせていただきたいと思います。お話しいただいたのは松本トミ子さん。爆心地から1.4km離れた学校で被曝しました。 http://t.co/6NivFDzO

2012-08-06 12:55:02
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中妻じょうた 板橋区議会議員 立憲民主党 @nakatsuma

松本さん「当時の生活の様子。学校に夏休みはなかった。米はなく、サツマイモや団子汁を食べていた。衣料切符がないと下着一枚、靴下一枚手に入らなかった。毎日学校では訓練をやっていた。防火訓練、匍匐前進、バケツリレー、竹槍の練習。学校の運動場を畑にしたり、防空壕に作り変えたりした」

2012-08-06 13:04:07
中妻じょうた 板橋区議会議員 立憲民主党 @nakatsuma

松本さん「私の学校は爆心地から1.4km離れた竹屋町。当日は建物疎開のための取り壊し作業の予定だったが、朝に空襲警戒警報がなった。すぐ収まったが、私は少し遅れてしまい急いで学校に向かった。校庭には320人ほどの生徒がいた。朝礼台のそばを通ったときに、オレンジ色の光が襲ってきた」

2012-08-06 13:12:43
中妻じょうた 板橋区議会議員 立憲民主党 @nakatsuma

松本さん「目の前に太陽が落ちてきたのかと思った。続いてものすごい爆風が襲ってきた。私は倒れてきた校舎の下敷きになった。這い出て外に出ると周りが真っ暗になっていた(注:原爆投下は朝8:15)。一人の生徒にも先生にも会わなかった。学校の門を出るとあちこちから火の手が上がっていた」

2012-08-06 13:16:23
中妻じょうた 板橋区議会議員 立憲民主党 @nakatsuma

松本さん「早く家に帰りたいと思ったが、道がなくなってしまっている。とにかく近くの山に避難しようと思いがれきの山を歩き始めた。そのがれきの下から人の声がする。助けてーという声、子どもが泣いている声が。鶴見橋の広場まで出てくると大勢の人がいた」

2012-08-06 13:19:53
中妻じょうた 板橋区議会議員 立憲民主党 @nakatsuma

松本さん「頭の毛が焼け縮れ、顔がかぼちゃのように膨れた人、服が焼け落ち裸同然の人、男か女か区別がつかない人、亡くなった赤ちゃんを抱いているお母さんなど。そのとき初めて自分の状態が気になり、頭を触ってみると、頭にたくさんのガラスの破片が刺さっており、首の後ろの皮がズルッと剥けた」

2012-08-06 13:22:44
中妻じょうた 板橋区議会議員 立憲民主党 @nakatsuma

松本さん「私は後ろから光を浴びていたので背中一面火傷しており、服はぼろがぶら下がってるだけだった。私は自分の状態にショックを受けてしゃがみこんでしまった。しかし火の手が迫ってくる。もう一度歩き始めた」

2012-08-06 13:25:21
中妻じょうた 板橋区議会議員 立憲民主党 @nakatsuma

松本さん「たくさんの人が川に飛び込んでいた。私も水に入りたいと思い、土手に立ったが飛び込む勇気がなかった。川では大勢の人が折り重なって流れていった。おそらく亡くなっていたことだろう。土手では、たくさんの人がおばけのような姿で歩みを進めていた」

2012-08-06 13:28:35
中妻じょうた 板橋区議会議員 立憲民主党 @nakatsuma

松本さん「山の防空壕に着いた。悲惨な姿になってしまった人が大勢いた。赤く顔が膨れ上がった人、飛び出してしまった目玉を元に戻そうとしている人、内臓が飛び出して息絶えている人。そこでも一人の生徒にも先生にも会えなかった。その後トラックに載せられて、さらに離れた小学校に収容された」

2012-08-06 13:34:12
中妻じょうた 板橋区議会議員 立憲民主党 @nakatsuma

松本さん「その収容所で初めて、5人の友だちと1人の先生に会えた。顔が膨れ上がって声を聞かないと誰だかわからなかったが、私たちは抱き合って喜んだ。その後私は床に敷かれたむしろの上に寝かされた。隣に寝かされた友だちはずっとわけのわからないうわ言を言っていたが、しばらくして亡くなった」

2012-08-06 13:36:33
中妻じょうた 板橋区議会議員 立憲民主党 @nakatsuma

松本さん「亡くなった友だちはむしろごと引きずり出され、校庭の真ん中に積まれた。その日の夜遅く私は初めて治療を受けられたが、包帯もガーゼも何もない。ブリキのバケツに入れられた薬をしゃもじですくって塗るだけ。その後、4人の友だちと1人の先生も次々に亡くなった。「次は自分だ」と思った」

2012-08-06 13:39:13
中妻じょうた 板橋区議会議員 立憲民主党 @nakatsuma

松本さん「収容所の部屋の中には嫌な臭いが充満していた。膿、汚物、死体を焼いた臭い。ハエが大量に発生して、傷口や火傷痕に卵を産みつけ、ウジが湧く。ウジに体を食われる痛みに必死に耐えた。その後、世話をしてくれた人が、私のおばあさんの疎開先まで、一日がかりで連れて行ってくれた」

2012-08-06 13:47:54
中妻じょうた 板橋区議会議員 立憲民主党 @nakatsuma

松本さん「おばあさんの疎開先の田舎でも、つける薬やガーゼや包帯はひとつもない。きゅうりをすった汁を火傷痕に塗ってもらっていた。体調はかなり悪かった。下痢や吐き気、嘔吐など。当時はそれが放射能の影響だとは誰も知らなかった」

2012-08-06 13:50:43
中妻じょうた 板橋区議会議員 立憲民主党 @nakatsuma

松本さん「しばらくしておばあさんが小さな骨を持ってきた。それが母と3歳の弟の骨だった。5歳の弟は当時外で遊んでいて未だに行方不明。母と弟の骨は、爆心地から600mの焼けた自宅で見つかった。父は西の観音橋にいた。火傷も怪我もなかったが、「黒い雨」に濡れてずっと自分を探していた」

2012-08-06 13:54:16
中妻じょうた 板橋区議会議員 立憲民主党 @nakatsuma

松本さん「父は9月になってから田舎に来たが、放射能の影響で体を動かすことができなかった。しばらくすると父は元気になり、いつまでも祖母の疎開先にお世話になれないので、雨風しのぐだけのバラック小屋を立てて移り住んだ。私は歩くことができなかったので大八車に乗せられて移動した」

2012-08-06 13:57:00
中妻じょうた 板橋区議会議員 立憲民主党 @nakatsuma

松本さん「大八車の道すがら、変わり果てた広島の姿が見えた。見渡す限り焼け果てて何もない。立てた小屋で暮らし始めたが食べるものもなく、サツマイモやカボチャの茎や、焼け跡に生えた雑草を食べた。そして父は再び、起き上がれない体になってしまった」

2012-08-06 13:59:18
中妻じょうた 板橋区議会議員 立憲民主党 @nakatsuma

松本さん「新しくできた学校に通い始めた。20人足らずの生徒はみんな火傷痕やケロイドの残った顔をしていた。これからどれくらい生きられるか、そんな話ばかりしていた。役人が放射能の影響の調査に来た。モルモット扱いだった。治療は一切なし、検査結果は一切知らされなかった」

2012-08-06 14:01:37
中妻じょうた 板橋区議会議員 立憲民主党 @nakatsuma

松本さん「生計を立てるために、学校が終わると焼け跡の鉄くず集めをやっていた。鉄くずを闇市に持っていき、お米や野菜を手に入れていた。父はずっと死にたい死にたいと言っていたが、昭和30年、朝起きてみると、父は自分の手で亡くなっていた」

2012-08-06 14:04:08
中妻じょうた 板橋区議会議員 立憲民主党 @nakatsuma

松本さん「昭和25年に私は学校を卒業し仕事を探し始めた。しかし、被爆者に仕事はなかなか見つからない。仕事を探そうとしない被爆者も大勢いた。ぶらぶらしていたり、起き上がることができなかったり。二度とこのような被爆者を作ってはならないという思いが強くなっていった」

2012-08-06 14:06:34
中妻じょうた 板橋区議会議員 立憲民主党 @nakatsuma

松本さん「職探しのために、私はケロイドを隠すため長袖を常に着ていた。昭和27年にお菓子屋さんに就職できた。しかし働けたのは半年だけだった。ある日お店の中でたくさんの血を吐いた。胃潰瘍だった。手術のために胃の2/3を切られ、輸血をしたが、その輸血がひどく、血清肝炎になってしまった」

2012-08-06 14:09:44
中妻じょうた 板橋区議会議員 立憲民主党 @nakatsuma

松本さん「それっきり働く場所をなくした。次に祖母を亡くし、私は一人ぼっちになってしまった。原爆は命あるものすべてを奪う。残留放射能は人類の未来をなくす。今でも放射能の影響で亡くなる人がたくさんいる(注:今日新たに5729人の名簿が原爆慰霊碑に納められ、死亡者は28万959人に)」

2012-08-06 14:15:14
中妻じょうた 板橋区議会議員 立憲民主党 @nakatsuma

松本さん「このことを話せるようになるのに50年かかった。しかし、この体験を次に伝えなければならないと思った。いろいろな欲望、宗教的な差別、争いがなくなることはない。一日も早く若い人たちの力で、平和の学習を続けて、豊かで安全な国を作ってほしい。広島は世界にこのことを伝えてほしい」

2012-08-06 14:19:33
中妻じょうた 板橋区議会議員 立憲民主党 @nakatsuma

松本さん「最後にずっと話せなかったことをお話しする。被爆後、学校のがれきの片付け作業をやった。たくさんの骨が出てくる。大きな瓶に3杯分。遺族に骨を渡していく。すると一人のお母さんが「うちの子が死んで、なんであんたが生き残っているの」と言った。生き残って申しわけありませんと思った」

2012-08-06 14:23:36
中妻じょうた 板橋区議会議員 立憲民主党 @nakatsuma

松本さん「あれから67年が経った。私の命は、自分の命であって自分の命ではない。亡くなったみんなによって生かされている命だ。自分の体を大事にして生きていきたい」(了)

2012-08-06 14:25:06
中妻じょうた 板橋区議会議員 立憲民主党 @nakatsuma

長々と大変失礼いたしました。被爆後67年が経過し、自分の体験を肉声で伝えられる被爆者も高齢になっています。広島市は原爆体験の伝承事業の強化に取り組み、野田首相も政府として伝承強化に取り組むと表明しました。私も微力ながら、自分のできることで伝承の一助になりたいと思った次第です。

2012-08-06 14:30:17