広島の原爆投下についてまとめてみた

太平洋戦争末期の1945年(昭和20年)8月6日、アメリカ軍によって広島市に投下された原子爆弾についてまとめてみました。
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ℳ.日本史と近代史◇歴女と呼ばないで @MoeK20060408

今から74年前の1945年(昭和20年)8月6日 午前8時15分 広島市に原子爆弾リトル・ボーイが投下され、約14万人以上の尊い命が犠牲となりました。 今ある平和を当たり前とは思わずに。今年もこれからも、私は伝えたいです。※写真は原爆ドームとテニアン島の原爆ピット。 #原爆の日 #太平洋戦争 pic.twitter.com/0SzaWVoVyu

2019-08-06 07:48:20
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1945年(昭和20年)8月6日 午前2時45分。原爆投下作戦部隊指揮官ポール・ティベッツ大佐と搭乗員12名を乗せたB-29 エノラ・ゲイがテニアン島を離陸しました。胴体にはリトルボーイと呼ばれたウラニウム爆弾が積まれていました。 午前7時25分、気象偵察機ストレートフラッシュ号から通信が入ります。 pic.twitter.com/ywQi529YZE

2019-08-06 08:10:52
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目標上空の雲量が30%と聞いた時、ティベッツ大佐は機内で「広島だ!」と叫びました。この瞬間、広島の運命は決まったのです。 午前8時15分17秒、広島市の中心を流れる元安川と本川の分岐点に架かる相生橋に照準を合わせて エノラ・ゲイは世界初の原子爆弾 リトルボーイを投下しました。 pic.twitter.com/e2SmTHJkqv

2019-08-06 08:19:39
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閃光と共に熱線が人々と街並みを焼き尽くし、広島は6時間に渡って炎に包まれます。さらに黒い雨にも見舞われ、被害を広げる事になりました。 当初の犠牲者は約14万人といわれていましたが、現在まで約30万人 辛うじて生き残った人々も熱線・放射能を浴び今もなお、原爆症として苦しみ続けています。 pic.twitter.com/QFdgBPqig1

2019-08-06 08:32:09
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以前からお伝えはしていましたが、本日より広島への原爆投下の歴史ツイートを展開していきます。 戦争体験者でない私がどこまで伝えられるかは分かりませんが、当時の背景、現在も広島市に残る被爆遺構と共にお伝えしてまいります。 よろしくお願いいたします。

2019-08-06 14:16:51
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ここにご紹介する写真の多くは私が現地を訪ねて撮影したものです。古写真や絵画など、一部はパブリックドメインです。 また、広島平和記念資料館で撮影した展示も在ります。私が撮影した他の写真も含め、展示品の撮影許可をいただいたものですので無断転載は固くお断りします。

2019-08-06 15:43:35
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1938年(昭和13年)にドイツでは核分裂現象が発見され、各国で兵器に応用しようと考え、新型爆弾の開発を目指していました。 1939年(昭和14年)9月1日に第二次世界大戦が勃発すると ユダヤ人迫害政策を取るナチス党率いるドイツから逃れてアメリカに亡命していた物理学者のレオ・シラードたちは、 pic.twitter.com/jukxfnVLrr

2019-08-06 16:12:24
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当時 研究が始まっていた原子爆弾をドイツが保有する事を憂慮し、アインシュタインとの相談で原子爆弾の可能性と政府の注意喚起をルーズベルト大統領へ進言する手紙(アインシュタイン=シラードの手紙)を作成します。 アインシュタインの署名を得たこの手紙は同年10月11日に届けられました。 pic.twitter.com/OFegQm9muj

2019-08-06 16:12:24
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その手紙には原子爆弾の原材料となるウラニウム(ウラン)鉱石の埋蔵地の位置も示されていたそうです。 ヨーロッパのチェコのウラン鉱山はドイツの支配下にあり、ルーズベルト大統領は意見を受けてウラン諮問委員会を一応発足させたものの、この時点ではまだ核兵器の実現可能性は未知数であり pic.twitter.com/CqumP4W2fW

2019-08-06 16:12:25
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大きな関心は示していませんでした。2年後の1941年(昭和16年)7月にはイギリスの亡命物理学者オットー・フリッシュとルドルフ・パイエルスが ウラン型原子爆弾の基本原理とこれに必要なウランの臨界量の理論計算をレポートにまとめ、イギリスの原子爆弾開発を検討する委員会であるMAUD委員会が発足。 pic.twitter.com/imADDjOUMr

2019-08-06 16:12:25
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MAUD委員会では原子爆弾が実現可能なもので航空爆撃機に搭載可能な大きさと明らかにされました。 ウィンストン・チャーチル英国首相が北アフリカでのイギリス軍の大敗などを憂慮してアメリカに働きかけ、このレポートの内容を検討したルーズベルト米国大統領は同年10月に原子爆弾の開発を決断します。 pic.twitter.com/SwEkaESUD6

2019-08-06 16:12:26
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そのおよそ2ヶ月後の12月8日未明、ハワイ時間12月7日に真珠湾攻撃やマレー作戦が開始され、太平洋戦争が勃発。 MAUD委員会とは 第二次世界大戦中のイギリスで原子爆弾の可能性を探るために設けられた科学者からなる委員会の事です。 pic.twitter.com/izt96Xjk5h

2019-08-06 19:18:38
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MAUDは、"Military Application of Uranium Detonation"の略語で「ウラン爆発の軍事応用」という意味。同年12月にはアメリカでもプルトニウムの製造実験が始まりました。 1941年(昭和16年)7月 アメリカはMAUD委員会はウラン濃縮とそれによるウラン爆弾が技術的に可能だとする報告を提出し、解散。

2019-08-06 19:18:39
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これがアメリカ政府に伝えられて原爆開発計画の直接の開始要因となります。1942年(昭和17年)6月 ルーズベルトは「マンハッタン計画」を 秘密裏に開始させ総括責任者にはレズリー・グローヴス准将を、開発総責任者はロバート・オッペンハイマー博士を任命します。 pic.twitter.com/6ROccpULrl

2019-08-06 19:18:39
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同年9月26日には アメリカの軍需生産委員会が「マンハッタン計画」を最高の戦時優先等級に位置づけます。 こうして見ていくと、太平洋戦争勃発前から原子爆弾の開発は始まっていたという事が解ってきます。

2019-08-06 19:18:40
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1943年(昭和18年)4月にはニューメキシコ州に有名なロスアラモス研究所が設置されました。20億ドルの資金と科学者・技術者を総動員した この国家計画の技術上の中心課題はウランの濃縮で テネシー州オークリッジに巨大なウラン濃縮工場が建造され、 pic.twitter.com/cAkK5GQhiu

2019-08-06 19:18:40
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2年後の1944年(昭和19年)6月には高濃縮ウランの製造に目途がつきます。 同年9月18日 ルーズベルト大統領とチャーチル首相はニューヨーク州ハイドパークで首脳会談を行います。 内容は核に関する秘密協定(ハイドパーク協定)で 日本への原子爆弾投下の意志が示され、 pic.twitter.com/QTih8HDlpT

2019-08-06 19:18:40
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核開発に関する米英の協力と将来の核管理についての合意がなされました。 日本でもアメリカの原子爆弾開発を察知していました。 1943年(昭和18年)1月 理化学研究所の仁科芳雄博士と陸軍航空技術研究所の安田武雄中将が中心となり「二号研究(暗号名)」の小型原子爆弾の開発が始まります。 pic.twitter.com/amvNN30OvM

2019-08-06 19:18:41
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1943年(昭和18年)末の時点でドイツで原爆が開発されていない事をイギリスもアメリカも把握していましたが、この事実は伏せられたまま「マンハッタン計画」は進められていきます。 1944年(昭和19年)7月には日本でもウラン濃縮実験が始まりますが、翌1945年(昭和20年)3月に失敗に終わりました。

2019-08-06 19:18:41
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同年 再び海軍でも京都大学の荒勝文策博士に依頼し「F研究」と呼ばれる原爆研究が進められていましたが 実験装置の設計段階のまま、翌1945年(昭和20年)8月の終戦を迎えました。 pic.twitter.com/4TdmsCwHr9

2019-08-06 19:18:42
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前後してルーズベルトは原子爆弾投下の実行部隊(第509混成部隊)の編成を指示します。混成部隊とは陸海軍から集めて編成された部隊の事です。 同年9月1日に隊長を任命されたポール・ティベッツ陸軍中佐は12月に編成を完了し、ユタ州のウェンドバー基地で原子爆弾投下の秘密訓練を開始します。 pic.twitter.com/bOxxNZBnlg

2019-08-06 19:18:42
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1945年(昭和20年)2月には原子爆弾投下機の基地はテニアン島に決まり、部隊は同年5月18日にテニアン島に移動、日本本土への原爆投下に向けた準備も始まりました。 しかし 同年4月12日 ルーズベルト大統領は昼食前に脳卒中に倒れ、急死。急遽 副大統領ハリー・S・トルーマンが大統領に昇格します。 pic.twitter.com/f0z87te6W6

2019-08-06 19:18:43
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1945年(昭和20年)7月16日 米軍はニューメキシコ州で世界初の原爆実験に成功します。この情報は直ちに当時 大統領に就任したばかりのハリー・トルーマン大統領に伝えられました。 この報告を彼はポツダムで受けています。同年7月25日 マンハッタン計画の責任者で総指揮者のレスリー・グローブスは pic.twitter.com/HWIkDm1L7e

2019-08-06 19:18:43
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原爆投下指令書を作成し、どこにこの爆弾を投下するかを検討していました。当初、この新型爆弾はドイツに投下されるはずだったのですが、既にドイツは降伏しており、標的は日本へと変わっていたのです。 この頃、アメリカでは第1回目標選定委員会が開催され、原爆投下目標の選定が始まっていました。 pic.twitter.com/Xwq6cBIcUn

2019-08-06 19:18:44
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目標選定委員会では4つの候補地が選ばれます。日本最大の兵器工場が在る福岡県小倉市、日本軍の輸送船団の中心基地が在る広島市、 アルミ工場や輸送船の終着港が在る新潟、人口100万人の工業都市で原爆効果測定に最も適した京都が候補にあがりました。

2019-08-06 19:18:44
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