ニー仏さんと慈永和尚さんの対談

「阿羅漢と仏陀の区別」の問題について ニー仏さんと慈永和尚さんの対談その2に続きます http://togetter.com/li/352765
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@jiei_yushi001

いまニー仏さん@neetbuddhist のこの記事http://t.co/jvAqxpQdを拝読。瞑想関係というのは、現在自分自身が取り組んでいるところとシンクロしてくるのが怖いほどなので瞑想Tweetなど控えたいのだが、目にしてしまったので備忘の意味でも書いておく。

2012-07-30 20:39:47
@jiei_yushi001

「ただ自分自身に対するメッターを育てるのです。私が幸せでありますように、とね」これは、私自身は、「こりゃムリというものだろう」というのが率直な実感である。慈悲って何だ?それは食えるのか?見えるのか?触れるのか?だったら見せてくれよ、触らせてくれよ、といわれるだろう。

2012-07-30 20:41:11
@jiei_yushi001

事実、それが何なのか知りたくて、どういうものなのかに触れたくて、人は宗教を求める。こういう人はかなりいる。そして、何なのかわからないものについて思うことに、尻込みすることはある意味当然だ。

2012-07-30 20:42:39
@jiei_yushi001

キリスト者の場合は、長い時間がかかることを当然とわきまえ、愛で接する。愛で接する意外に方法がない。それは主たる神が教え給うた方法であり、失敗したとしても、それは人の失敗であり、神の失敗ではない。神は成功するまで見届けて下さる。神の御業を困難だと思うことは不思議でも何でもない。

2012-07-30 20:44:53
@jiei_yushi001

だから愛することを知らないことを責めもしないし、不思議でもない。それは、神の御業なのだから。そしてそれを成し遂げることができたとしても、有頂天になったり傲慢になることもない。なぜならそれは自分が成し遂げたのではなく、神の御業なのだから。

2012-07-30 20:46:20
@jiei_yushi001

「ただ自分自身に対するメッターを育てるのです。私が幸せでありますように、とね」自分自身とは何だ?メッターが育つというのはどういうことだ?そもそも幸せというのは何だ?答えを知っている人は、逆にその答えを必要としていないものは、そもそも宗教には来ないのではなかろうかという思いもする。

2012-07-30 20:48:45
@jiei_yushi001

そしてここでジョーティカ師は、この方から答えを引き出している。「そうですね……。私の犬のことは愛しています」

2012-07-30 20:51:03
@jiei_yushi001

犬はけして人間にウソをつかない。騙さない。全身全霊で愛してくれる。このことを、この女性は知っていた。そして思い出した。犬といるときには、確かに慈悲が働いているということを。

2012-07-30 20:53:06
@jiei_yushi001

アーナパーナもそうだが、慈悲の瞑想において、本職の僧侶が指導に失敗(それはほとんどが目に見えない)しているのを、私自身も身近でよく目にしている。そしてその指導は、慈悲とは何なのか、経典から説明しようとするクセがどうしても見え隠れする。

2012-07-30 20:55:11
@jiei_yushi001

実感としての慈悲が得られなくとも、理屈としてのものは、覚えることができる。そしてアタマのよい信者たちは、理窟が肥大するようになる。場合によっては論戦したがるようにもなる。

2012-07-30 20:57:17
@jiei_yushi001

そういうとき、仔猫を抱かせる。動物は人によって好き嫌いがあるから、うまくいくとは限らない。しかし仔猫ですら、慈悲に包まれて安心することができるのだということを、一目瞭然に確かめることができる。

2012-07-30 20:59:40
@jiei_yushi001

慈悲の瞑想について、私はティク・ナットハン師の示された方法より的確なものに会ったことがない。これは勿論すべての人に当てはまるわけではないだろう。

2012-07-30 21:01:13
@jiei_yushi001

憎しみというものは恐ろしいほどのちからを持つ。しかし、私たちはそれに慈悲で接することが出来る。慈悲というのは、私達がもつ最後の自由だ。慈悲であるかぎり、憎しみが浸潤することはない。そしてそれは、いま、ここその瞬間に現れる限りなき自由だ。わたしたちには、限りなき自由があるのだ。

2012-07-30 21:04:38
@jiei_yushi001

そこには、慈悲の瞑想がなぜ失敗するのかというヒントがある。つまり「慈悲を持つ」「自分が幸せになるように」という念じ方は「いま、ここ」でない、遠くの出来事でしか無いのだ。そしてそれはこころの可能性が閉じてしまっている。

2012-07-30 21:07:02
@jiei_yushi001

…というようなことを、慈悲の瞑想界隈の話に触れると、いつも思い出す。

2012-07-30 21:08:11
@jiei_yushi001

今更ながら「解脱道論」にとりかかる。これはあの「清浄道論」の元ネタになったということで、一部のテーラワーダマニアには知られている。

2012-08-04 23:35:08
@jiei_yushi001

「解脱道論」を読むようにと進めて下さったのはこちらの長老。「清浄道論ではないのですか」と尋ねると「『解脱道論』は『清浄道論』よりも古い文献でありアルハットの記述であると云われている。しかしブッダゴーサはアルハットではなかった」と。

2012-08-04 23:37:11
@jiei_yushi001

これは日本で(ネットで)テーラワーダ関係の情報に接している自分のような人間には少なからず衝撃を受ける言葉で、理由としては1)スリランカの仏教は須らく清浄道論に則っていると云われていること、2)ブッダゴーサはアルハットであるとスリランカ人は信じている筈だという思い込みがあるからだ。

2012-08-04 23:39:11
@jiei_yushi001

つまり清浄道論をテーラワーダ仏教の要として執着してもいないし、ブッダゴーサに対する評価というのもそれくらいだということだ。

2012-08-04 23:41:59
@jiei_yushi001

「清浄道論」に目を通していればテーラワーダは十分ではないのだろうかとおぼろげながら思っていたフシもあったので、我ながらその安直さに恥じ入った次第なのだが、実際はもっと柔軟に接していることを知った。

2012-08-04 23:44:49
@jiei_yushi001

トリピタカについても同様で、アビダルマピタカ、ましてアッタカターにおいては後世の付加であることは極めて自然に納得されうるのだから、経・律・論においては論の比重は少しく前二者には及ばないことになる。

2012-08-04 23:47:34
@jiei_yushi001

同じようなベクトルといえば、タイのブッダダーサ比丘であろうと思う。

2012-08-04 23:49:05
@jiei_yushi001

そういう意味では意識して判釈をしているんだな。この人はアルハットだ、この人は学僧に過ぎない、とか。アルハットであるという判断を誰がどうしているのかということについては、私にはわからないのだけれども。

2012-08-04 23:51:33
@jiei_yushi001

大乗についても、これは非常に重要な姿勢ではないかと思う。あの八宗綱要においても、凝念大徳が龍樹菩薩や世親菩薩について、菩薩としての階梯の位置づけを明記しているのであるが、鎌倉仏教など、誰がどの程度の階梯なのかはまるでわからないという状況だ。

2012-08-04 23:53:42
@jiei_yushi001

うすうす思っていることではあるが、大乗は「人で見ないでくれ、ダルマで判断してくれよ」という性格が強いように思う。

2012-08-04 23:54:34
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