- L_O_Nihilum
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好きな曲に逐一感想を書いていくか 今やっている「シューニャリアーナ享受論」はそこからスタートしている、確かなことだ。逐一好きなものを味わい、その味の記述 確かにこれはなにか生み出しそうだ、生み出した例もある、ラーメン屋を巡り続け食べつくして食べ比べ続ける末の体系化、享受論。
2012-08-22 01:47:22何を感じるかの連続的記述から感性自体も変化し鍛え上げられる(趣味の洗練とはこれのこと)。
その感性が、また何かの哲学を行っていく
それは確実にチャンスだと思っている
特に、消費というがんじがらめから抜け出す方法としては。
一期一会とは私の好きな言葉 だが、そこには言葉である以上の暴力性だってある それを見つけ出すことは、これは脱構築と呼ばれるが
2012-08-22 01:48:26一期一会
一 期 一 会
苺 一 絵
一期一会とはなんだったんだ?
一期一会、物語との出会いの一期一会…すべて享受できないからこそ…?無論。その通り。だが、仮にすべて享受したら、一期一会ではなくなるか?蓬莱人はどうなる?一期一会であるがために全てへ至らんという努力は諦観しきれるか?私は自分が放ってみてその怖さを識る
2012-08-22 01:49:51※掛け替えのなさ=数的?
そんなこと言ってながら、またここでCDを作ってしまった。こんどのCDの名前は「VOCALO-DIRECTUM」とした。DIRECTUMとは方向づけるモノ、という程度の意味。これからどこへいくのか?的中二病な雰囲気を醸す造語だ
2012-08-22 01:51:02僕のネーミングセンス、さいあくだ。
これまで「VOCALOQUOLIA」以来ずっとこんなふうに作り続けてきたけど、そのためにたくさんの動画から曲を引っ張ってきて、この悉若無と言う男は全く作家への感謝を欠いた男である(ようだ)。
2012-08-22 01:51:57それも金も払わないのだから、とか言えるかもしれないが、「金も払わず聴く・DLする」ことが、無感謝的である、作家不孝であるというのは脱構築的に解体される
2012-08-22 01:52:57自分で脱構築するほどこの場合にウザく感じられるものもない
逆に、金もなしに聴いちゃ駄目なのか?金が無くて実際ここまで聞いてやりたいというほどの作品があるのを前に諦め、実は聴ける環境があるにもかかわらず聴きもせず対象を指摘・指示・認識することの無責任さはいかんともしがたいはずだ?
2012-08-22 01:54:01寧ろお金よりも先にまず何度も聴いてくれるという事、の暖かさも抜き差ししきれない。私は暖かい男か?冷たい男か?様々な観点(パースペクティブと言う)の間でこれが内外、交差し続ける
2012-08-22 01:54:55ああ ああ そう言っている間にもこのCDは私に聴かれる いちおう、CDに収録した各曲には、作者のP名(及び彼/彼女の登録PN)と、そのアップロード日時をつねに書き込むようにはしているが、作品の完成(柵定)の瞬間は依然動画のステータスの時間と同一たりえず
2012-08-22 01:56:40ああ、ここに収録した音楽すら保存出来ているとは言い難い たとえ紙に書いたとしても。保存できているとは言い難い、たとえCDに収録したとしても。保存できているとは言い難い、たとえ作者等ステータスを事細かく明示したとしても。これで、僕の作ったボカロコンピCDは何枚目だろう。
2012-08-22 01:58:17その何枚のための、何曲を『聴いて』きたのだろう?それでも、未だ幾万数多の音たちの一部しか、私は知らないなんて。
2012-08-22 01:59:24そして、その願いのために、いくつ、CDに収録しては、ごみ箱にそのMP3達を押し込んだ?「空にする」ボタンを押した?収録して残す、ということを免罪符にして?音には書き込まれない日時を紙に書き残すことを免罪符にして? ” そ の 音 は 何 処 に 保 た れ た の だ ? ”
2012-08-22 02:01:35嗚呼、一迅の風の音色すら、木々も大空も、何一つ、保とうとはしないと言うのに。嗚呼、わたしだって、その風の音色や川のせせらぎたちを、保とうともしないと言うのに。
2012-08-22 02:02:55「VOCALO-DIRECTUM」のパッケージ裏に書いた自分の文章の引用。というか、こんな言葉が浮き上がってきたからそれにつながることを喋りたかっただけ。
結局そんだけかいな。私。
これすら私の使命感なのか?