目撃者になってから当事者になる。当事者になってから実践者になる。実践者になってから批判者になるかもしれない。けれども、いきなり批判者にはなれないだろ。
2010-07-14 02:14:02賛成できない。目撃者が当事者になることなどありえない。証言者、代弁者となるのが精一杯。 RT @k_eguchi: 目撃者になってから当事者になる。当事者になってから実践者になる。実践者になってから批判者になるかもしれない。けれども、いきなり批判者にはなれないだろ。
2010-07-14 12:25:16(承前)批判というのは証言の一形態。代弁者との差は当事者との距離感にしかない。 RT @k_eguchi: 目撃者になってから当事者になる。当事者になってから実践者になる。実践者になってから批判者になるかもしれない。けれども、いきなり批判者にはなれないだろ。
2010-07-14 12:28:13(承前)と、文脈をたぶん相当曲解して絡んでみるw でも「証言」はまさに文脈の解釈に関わる問題。 RT @k_eguchi: 目撃者になってから当事者になる。当事者になってから実践者になる。実践者になってから批判者になるかもしれない。けれども、いきなり批判者にはなれないだろ。
2010-07-14 12:30:48「当事者」という言葉を使った瞬間に、こっち側(自分)とあっち側(当事者)の越えられない線引きをしている気がして、感覚的にそれは違う気がして。RT @tHiraoka 賛成できない。目撃者が当事者になることなどありえない。証言者、代弁者となるのが精一杯。
2010-07-14 16:39:42そう、まさにぼくはこっちとあっちの間にきちんと線を引いておきたい。その境界を無視してあっち側に同化しようとするのは傲慢では。 RT @k_eguchi: 「当事者」という言葉を使った瞬間に、こっち側(自分)とあっち側(当事者)の越えられない線引きをしている気がして、(後略)
2010-07-14 18:24:50その線を越えられるかどうかは双方の努力次第だけど、その際「自分もまた当事者だ」とする論理には限界がある。 RT @k_eguchi: 「当事者」という言葉を使った瞬間に、こっち側(自分)とあっち側(当事者)の越えられない線引きをしている気がして、感覚的にそれは違う気がして。
2010-07-14 18:27:37線を引くまでは分かる。そして無視をしていけないことも。ただ越えようとする努力がない限り、その線は いつだって言い訳に出来る。 RT @tHiraoka そう、まさにぼくはこっちとあっちの間にきちんと線を引いておきたい。その境界を無視してあっち側に同化しようとするのは傲慢では。
2010-07-14 20:01:51同意します。@k_eguchi 自らは線のこっち側に留まりながらあっち側について語るのはとても難しいし、ぼくにはまだよくわからないけれど、それがA SEEDも掲げている「連帯」ということだと思います。(←代表に向かってどんだけ上から目線なんだ自分w)
2010-07-14 20:37:07@tHiraoka 自分もまだまだ模索中でございます。とにかく、「当事者意識」とか「連帯」とかってのは生半可に使えないなって思った。だからこそ、僕らは一歩尖った活動をしていくべきなのだが。
2010-07-14 20:46:11そして、だからこそ、えぐっちゃんが批判者を批判するのは違和感がある。 @k_eguchi えぐっちゃん自身が当事者でないなら、非当事者が問題を語っているという意味で、批判者と立場の違いはないのでは。当事者の声を代弁しているつもりでも、無理解な批判との差を担保するものは何もない。
2010-07-14 20:48:14@tHiraoka たしかに、担保するという意味では、代弁している「つもり」に決定的な落とし穴がある気がする。ただ、非当事者という立場の中で、偽善を恐れるあまり、積極的に非当事者でいようとすることには何も救いを感じない。
2010-07-14 21:26:17@k_eguchi うん…。「当事者」という言葉の使い方が違うだけで、わりと同じことを言っている気がしないでもない。えぐっちゃんの元のtweetは問題の内側に入ってこようとせずに批判だけする人を否定しているのかな、と思ったんだけど、そういうことではない?
2010-07-15 00:27:30@k_eguchi もしそうなら、そういう人とこそ、連帯する可能性を開けるとよいと思うのだけど、でもそもそも「連帯」ってなんなのだろうか!
2010-07-15 00:31:51@k_eguchi あとやっぱり、すべての問題に対して共感を寄せるということは不可能じゃない?積極的に関心を持たないことを選んでいるわけでなくても、語りえない領域というのは必ず出てくる。
2010-07-15 00:48:09@tHiraoka うーん、どうなんだろ。Twitterだからなおさらか、気軽な批判が目につくというのもあったけど、そもそもは「当事者」という言葉でもって、自分と誰かの間にひかれる線に違和感を持った。
2010-07-15 01:09:29@tHiraoka 全ての問題に共感を、というのは確かに無理な話。僕自身も無理。ただ、逆説的な言い方だけど、積極的に何か関心を持つこともまた選べるわけで、自分と辺野古、自分と原発、接点を見出すことは、問題の内側に入っていることだと思うな。
2010-07-15 01:14:27平岡くんの中ではそもそもどういう理解? RT @tHiraoka @k_eguchi もしそうなら、そういう人とこそ、連帯する可能性を開けるとよいと思うのだけど、でもそもそも「連帯」ってなんなのだろうか!
2010-07-15 01:16:59@k_eguchi 接点を見出すって難しい言葉だね。基地や原発の問題に対して、辺野古や祝島に住んでいる人たちの当事者性と、東京に住んでいるぼくの当事者性は別物だと思うんだよね。だってはっきり言って辺野古に基地ができても、直接ぼくの生活が脅かされるわけではないもの。(続く)
2010-07-15 11:07:11@k_eguchi (承前)だからといって、辺野古や原発の問題は自分に関係ない問題と考える態度は「何も救いを感じない」。それはぼくたちが有権者であり、彼らの負担や苦痛に対して政治的責任があり、正義を行う義務があるから。それを『当事者性」という言葉で呼ぶべきかは別として。
2010-07-15 11:12:14@k_eguchi 連帯についてはまだ考えを深められていない!当事者の論理は強力だけど限界があるなぁ、じゃあどのように乗り越えられるのだろう、という問いにたどり着いたところ。でもたとえば村上春樹の「壁と卵」の話は手がかりかもと感じる。http://bit.ly/b0MwCF
2010-07-15 11:44:54ふむふむ。当事者か非当事者かの2項ではなく、濃淡のある「当事者性」の方がまだしっくりきた。RT @tHiraoka だからといって、辺野古や原発の問題は自分に関係ない問題と考える態度は「何も救いを感じない」。それはぼくたちが有権者であり、彼らの負担や苦痛に対して政治的責任があり、
2010-07-15 19:55:45@tHiraoka 自分たちの生活が脅かされるから、と政治的責任を担っているから、というのは全く別の動機とも思えないよね。超長期的に見たときにその2つは交わるのかもしれないし。
2010-07-15 20:03:01