「3つの自立」と「障害の社会モデル」について

「自立って言葉をよく聞くけど、‥「自立」は意味がわかりにくい」というツイートから、障害者運動の展開からの【3つの自立】と、更に、健常者は「支援されている人」という観点から、障害の社会モデルについてのツイートまでをまとめました。 ●本まとめに続くまとめ: ★「障害者は支援に感謝するべき?健常者は支援されていることに気付いてない?」http://togetter.com/li/398393 ★「基本的人権と常識や共感との関係:差別禁止法や生活保護法での関連」http://togetter.com/li/400676 続きを読む
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anomy @anomy_

[セーフティネット][メシウマ脳][ワーキングプア]ここでは小久保哲郎弁護士の言い分が正しい。最低賃金スレスレの給料でカツカツの生活をしてるワーキングプアは堂々と生活保護を申請していいんだよ?ワーキングプアは生活保護や福祉を叩くな。 http://t.co/laT1zeRI

2012-10-11 10:18:30
峰太 @Ledmineta

ドイツ、イギリスの受給率9%台というのはすごいな。でも、今の世界の経済状況から見ればこちらのほうが妥当な数字なのかもしれない。/生活保護「受給者バッシング」の正体---年間支払額3.3兆円、受給者210万人の「世界」を徹底検証 【第2回】 http://t.co/N3mj81VN

2012-10-11 12:41:08
山やま @singstyro

生活保護の受給者数が過去最高だと云われるが、人口比率でいうと開設された1951年の2.4%よりも低い1.6%。これはドイツ9.7%フランス5.7%イギリス9.3%等と比較すれば相当に低い。|生活保護「受給者バッシング」の正体【第2回】 http://t.co/NKYaAiQG

2012-10-11 12:42:30
tatuki_h @tatuki_h

日本の受給率は1.6%。1951年は2.4%。不正受給率は約3%。海外の受給率は独9.7%、仏5.7%、英9.3%。捕捉率が独64.6%、仏91.6%、英50%超。日本の捕捉率は約20%。日本は受給資格がある80%の人が受給できずにいる。http://t.co/k1fLjf8n

2012-10-11 21:17:33
浪狼(⋈・∄)@フォロー数上限により新規FF規制中 @vagrantwolf4

「生活保護は恥」…農耕民族根性と儒教とキリスト教が組み合わさった考え。こんな奴を「ジャンヌ・ダルク」だなんて本家に対する侮辱。 生活保護「受給者バッシング」の正体---年間支払額3.3兆円、受給者210万人の「世界」を徹底検証 【第2回】 http://t.co/KQLaotWE

2012-10-11 22:13:26
古舘 宏和 @hihifuru

日本の生活保護支給額の対GDP比率は先進国中最低ランクなのになんでこんなに騒いでるの? RT @hahaguma: 生活保護受給者バッシングの正体 http://t.co/DkTpW6kQ自分より人が苦しまないと許さないという意識 典型例→http://t.co/vm8iZBMs

2012-10-11 22:49:24
たみやたかのり @tamymita

「生活保護というのは日本の文化からすれば恥」という政治家がもてはやされていいのだろうか。制度叩きの構造と苦しむ人の姿がみえてくる→生活保護「受給者バッシング」の正体--年間支払額3.3兆円、受給者210万人の「世界」を徹底検証 【第2回】 http://t.co/G6kkrby5

2012-10-11 22:51:14
atsushi @ediatsushi

生活保護「受給者バッシング」の正体---年間支払額3.3兆円、受給者210万人の「世界」を徹底検証 【第2回】 http://t.co/CyC3bh3l 現場の水際作戦が酷過ぎる。。。公平公正に動ける社会福祉士など専門職の関与が必要だ。「福祉事務所」改革は待ったなしだ。

2012-10-11 23:45:38
Hisashi @dinosaur_and_me

#ナマポ や不正受給について語りたいなら先ずはこの記事を読め。生活保護「受給者バッシング」の正体---年間支払額3.3兆円、受給者210万人の「世界」を徹底検証 【第2回】 http://t.co/kjetWm7B

2012-10-12 00:50:19
本田由紀 @hahaguma

生活保護「受給者バッシング」の正体---年間支払額3.3兆円、受給者210万人の「世界」を徹底検証 【第2回】 http://t.co/Vajd5wFe自分より人が苦しまないと許さない、苦しめ、という意識構造がバッシングの底にある。典型例→http://t.co/7I4HazbF

2012-10-11 22:36:03

立岩真也「自立支援」
http://www.arsvi.com/ts2000/2007046.htm
から抜粋:


 立岩真也「自立支援」

http://www.arsvi.com/ts2000/2007046.htm

■[自立支援] 36×67行(草稿)
  【3つの自立】障害者運動の展開を受けて社会福祉学が整理したところでは、自立に少なくとも3つの意味があるとされる。複数の意味をもつこの言葉が、そのいずれを意味するのかがよくわからないように、あるいは複数の意味を同時にもつ曖昧な語として使われていることの意味が重要である。
  まず、自立は安定した職業に就くこと、経済的に他人に依存せずに暮らすこととして、すなわち「職業自立」「経済的自立」としてある。そして、公的扶助や福祉サービスの目標は、この意味での自立が達成され、社会的支援自体が不要になることとされる。例えば生活保護の目的は「自立助長」にあると言われる。この時、この語は古典的な意味での「自助」(self-help) と互換的である。この意味の自立・自助自体に第一次的な価値を付与し、他をそれに従属させることがなされてきた。近代とその時代の社会事業の底流にそれは存在し続けてきた。
  次に自立とは「身辺自立」、「日常生活動作」の自立(「ADL自立」)を意味する。日常語としてのリハビリテーションで目指されるのがこれである。それは職業自立の前提ともされるが、経済的自立はもはや不可能だが日常生活動作において自立できる範囲があるとされる時もある。この場合にはしばしば、日常生活動作における自立が経済的自立の不可能を代補する価値とされることになる。
  これらの自立が他に優先する目標とされる時、そのいずれもが容易でない人は自立困難な人とされ、社会的支援の外側に置かれることにもなる。これらのいずれでもない自立が、1970年代に始まる障害者の「自立生活運動」で主張される。それは自己決定権の行使として一般に捉えられる。すなわち、介助など種々の手助けが必要であればそれを利用しながら、自らの人生や生活のあり方を自らによって決定し、自らが望む生活目標や生活様式を選択して生きることを自立とする。
  ただ、事実に即するなら、「自立生活」とは、親元や施設から離れ、ひとまずは一人で暮らすこと自体を指した。そのために「自立生活センター」を設立し、「自立生活プログラム」を提供し、生活を実際に可能にする介助・介護システムの確立を目指した。それを自己決定する生活への移行と言うことはできる。しかし、彼らが具体的な生活の仕方をもって自立(生活)と呼び、自己決定、自律(autonomy)、(としての自立)を最初の唯一の原則とすることに必ずしも同意しなかったことは示唆的である。従属と保護から逃れて暮らすことと、自己決定を達成すべき目標とする生活を送ること、この微妙な差異は重要である。彼らはその意義を積極的に規定せず、「正しい」生活を示そうとはしない。普通の状態を普通に実現することをあくまで要求し、同時に、普通が普通とされないことの意味を問うた。たいていの生活に確たる目標などないことを脇におき、ことが「福祉」となると、好ましく正しい状態として例えば「自立」を語ってしまうことの奇妙さの自覚がここにはある。その運動は、施設を増やすのが福祉であり、家族による保護を基本的に望ましいものとする社会にあって、それと異なることを実現しようとした点で画期的だったが、もう一つ受け取るべきは、自立だの自己決定だのをなにかたいそうなものにまつりあげないその姿勢の意味である。
[...]

 

倉本 智明 20021031 「あとがき」
石川・倉本編[2002:281-286]『障害学の主張』
http://www.arsvi.com/b2000/0210ij.htm#09
から抜粋:


 倉本 智明 20021031 「あとがき」

石川・倉本編[2002:281-286]『障害学の主張』
http://www.arsvi.com/b2000/0210ij.htm#09

[...]
 本書を手にされている読者にとって、おそらく、バリアフリーやユニバーサルデザインといったことばは既にお馴染みのものだろう。そのようなことばを耳にしたことのない人たちをも含め、今日、仮に財政的な問題がクリアされるとしたなら――実はこの問題は重要なのだが、話が複雑になるのでここではあえてふれないことにする――「駅にエレベーターを」といった主張に賛意を表す者は少なくないはずである。しかし、多くの場合、そうした結論を導くロジックはつぎのようなものではないか。「人は通常階段の昇降に不自由のない身体をもっている。けれど、なかにはそれができない者もいる。治療やリハビリテーションを通じて、その人が階段を昇り降りできるようにすることが望ましいが、残念ながら現在の医療技術ではすべての人をそのようにすることは難しい。∴エレベーターも必要だ……」。
 もしそのように考えるとしたら、それは典型的な個人モデルの発想である。そこでは、なぜ階上や階下への移動方法として、これまで多くの場合、階段だけが用意され、他の昇降手段が用意されてこなかったのかという問いが看過されている。従来の障害研究は、ある機能/能力を備えた身体を「標準」と措定し、そこからの偏差に問題発生の原因を求めるかたちで論を構築してきた。なにが「標準」であるかは語られても、なぜそれが「標準」となるのかは語られない。社会的障壁が注目される場合にも、まず参照されるのはこの「標準」であり、それを「下回る」とされる身体機能や能力である。その改善が望めない場合にのみ社会は浮上してくる。そこでは、いわば、社会は身体の残余として扱われるにすぎない。
 障害学は、そのようにこれまでの障害研究が意識の外に放逐してきた背後仮説をも検討の俎上にのせる。その試みの成果のひとつが、本書第1章や第8章でも紹介されている社会モデルというパースペクティブである。社会モデルは、個人モデルを批判し、社会諸関係のうちに問題の所在を発見する。個人モデルが治療不可能・訓練不可能な「例外的な身体」への対応としてエレベーターの設置を提案するのに対し、社会モデルは、そもそも特定の身体のことのみを念頭において駅が設計されていることが問題なのであり、そうした社会のありよう自体が、障害者を文字どおりdisabled people(できなくされた人びと)へと仕立て上げるのだと考える。同じようにバリアフリーやユニバーサルデザインへの支持を表明するにしても、そこへと至るロジックが一八〇度異なるわけだ。
 社会モデルにあっても、治療やリハビリテーションそのものが否定されることはないが、それは、個人モデルがいうような問題解決のための必須科目ではなく、障害当事者が必要に応じて選びとるオプションとなる。障害者が、当該社会においてインペアメントとみなされる身体的特徴をもつことで不利益を被るか否かは、身体的特徴それ自体によって決まるものではなく、社会の側がその身体にどのような意味を与え、取り扱うかによって決定されるものだからである。手術や訓練を行おうが行うまいが得られる利益/被る不利益が等価となるような社会、治療やリハビリへと人びとが社会的に誘導されない社会の建設をこそ社会モデルは主張する。
[...]

 

立岩真也「ニートを生み出す社会構造は」
http://www.arsvi.com/0w/ts02/2005018.htm
から引用:


 ニートを生み出す社会構造は

社会学者立岩真也さんに聞く

立岩 真也  2005/04/15 『Fonte』168:7(旧『不登校新聞』、発行:不登校新聞社)
http://www.futoko.org/top/

  *題は編集部による。
  *見出し(編集部による)は「若者の心の問題ではない」「訓練では解決しない」
  *この文章は、注を付した上で『希望について』に収録されました。買っていただけたらうれしいです。

――現在の労働状況について、どう思われますか?
  みんながフルに働かなくてもすむ社会になった、ということだと思います。それ自体はよいことです。みんなが働けば、物があふれてしまう。働かない人がいること自体は悪いことじゃない。それだけ余裕のある社会だということです。
  もちろん、消費し生きていくには生産が必要で、生産のためには労働が必要です。お金を稼ぐ労働に限らず、働く必要はあります。その意味で、憲法の「勤労の義務」は、一応認めていい。ただ働く場がないなら働けと言っても無理で、生産が足りているなら、その必要もない。他方、働きたい人の気持ちは大切にした方がよい、働いてもらった方がよい。それをどのように実現するかが問題です。
――ニートについてはどう思われていますか?
  僕はニートや若者について、調べたり読んだりしてないので、よくわかりません。わからないときは、わからないと言った方がよいと思うので、まず、それを言っておきます。
  ただまず、職がない。雇われる側にとってみれば厳しい状況になっています。もう一つ、人が足りているから人の使い方が荒くなっている。さらに、ものがたくさんあるのに、もっと作って売ろうとするから、働く側にとれば、「ここまでやる必要あるの」と思うことをさせられる。状況はこうなのに、やる気があるとかないとか、人間関係の作り方がうまいとか下手だとか、「現代の若者」の性格みたいなもので説明するのはだめだと思います。
  では、経済を拡大し、雇用を拡大すればよいかというと、それもうまくいかない。生産は基本的に足りていますから、無理して増やそうとしても増えないし、それでも無理して増やすと意味の感じられない仕事が増えることになります。
  それでも多くの人が働くようにしたいのなら、仕事を分け合うことです。そうしなければ、仕事したくても仕事はない。誰にだってわかる理屈です。若者の根性の問題ではありません。
――ご自身の学生時代と比べると変化を感じますか?
  今よりは全般的な就職状況はよかったと思います。ただこれは男性に限ってのことで、女性は厳しかったです。だから、いま失業したりバイトで暮らしてる人たちがいる場は、以前は女性がもっぱら引き受けていたとも考えられます。
――若者が「甘えているだけ」との意見は多いですが
  たしかに僕より上の世代の人たちたちは、終戦直後とか物のない状況を生きてきた。むろん貧乏はつらいです。だけど働くしかないなら働くしかない。そこはすっきりしているし、働けばそれだけいいことがあるから、不幸ではない。
  今は自分が働かなくても世の中まわっていくのに、働かなければならないことになっている。仕事も、必要性があるんだかわからないわりにきつい。で、しんどくなる。今と昔を簡単に比べられないと思うし、今の方が以前よりきつい部分もあると思います。
――就労訓練について、どう思われますか?
  イギリスなんかで「ワークフェア(※注1)」って呼ばれる政策があって、若年失業者に就労訓練をさせるたりして成果を収めたとか言います。でもそれはおかしい。職業訓練をしたところで仕事が少ないことには変わりがない。失業者は出る。そういうことです。
  「いきなり仕事するのは怖いから、どこかで肩慣らしを」という気持ちはわかります。ただそれで解決するとは思えません。だいたい就労訓練って具体的に何するの? 仕事で使うスキルを習いたいとして、専門学校なら星の数ほどある。スキル以外に必要なのは実践でしょう。実践の方は、実際の場でやってみないと。訓練はしょせん「疑似体験」にすぎないんです。中途半端さは拭えません。
  それから、「働けない」と「働かない」は言葉としては区別できますが、実際には分けにくい。手が動かなかったり計算ができなかったり、明らかにできないことがわかることもあります。でも精神障害の人なんかよくわからない。「働きたくないだけなのに、働けないと言ってる」と非難されがちです。しかし、さぼりたいのかできないのかは、本人にもわからなかったりする。他人もわからないんだけど、たださぼっているように思い、非難する。本人は「働かなければ」と思い続け、状況が悪くなっていくことが多いです。
  働かなければとプレッシャーを感じている人は、就労訓練の施設ができると、さらに厳しくなるかもしれません。そこは半端な場所で、行ったからといって仕事に就けるわけでもない。でも、「せめて訓練の場に行くだけ行かなければ」、というわけです。しかし結局職はない。でも訓練の機会は提供したのだから、あとは自分の問題だ、自己責任だ、ということになる。
――働くことをどう考えたらいいと思いますか?
  まず、働くことは生きていくための手段です。手段であることと働くことの楽しみは両立しますが、手段は手段であり、それ以上でも以下でもありません。
  労働の美徳、倫理、美意識はあってもいいんです。仕事が楽しいと思ったり、意義を感じたりすることはあります。それはまったく否定する必要はないです。でも、労働に対する美意識と同時に、「何ほどのもんか」という思いを持っていたらいいと思うんです。
――なぜ、働くことは過剰に考えられるのだと思われますか?
  近代の社会は「人間がそのままでOK」とはしてきませんでした。働いたり、何かをすることによって、その人が存在する価値や意味を生じるという観念を作りだしてきました。何かをしないとその人に価値がないというのは、どう考えてもおかしいことです。生きていくために仕事はあります。仕事という手段によって自分の価値が格付けられたら、主客転倒です。そこは単純に考えて、おかしいと言わざるを得ません。
――今後はどんな方向に進んでいくのがいいと思われますか?
  一つは労働の分割・分配です。働きたい人が4人いて、仕事の席が3つしかないとします。そのままなら4人目をはじいてしまいますが、3人の働く時間を減らして、仕事を4人目にまわそうというのです。みんなの労働を増やすのではなく、割っていく。労働時間が減ったら給料も減りますが、もしみんなに仕事をさせたいなら、今席をとっている人もそのぐらいは飲まないといけない。これはヨーロッパやいろんな地域で実践されていることです。難しい部分もありますが、日本でも、工夫すれば実現可能なことです。
  それがいやなら、働いている人たちは、他の人の分も勝手に働いているんですから、働いてない人にきちんと分けるものを分けるべきです。もちろん暮らす権利は働く人だけのものではありません。働こうが働くまいが基本の所得を保障する「ベーシックインカム」というアイディアもあります。日本では若い人からそういうことって言い出しにくいかもしれません。でも仕事を分けてくれ、それがいやなら金を、というのはもっともな要求です。金を分けろ、それがいやなら仕事を、でもよいのです。そして、所得と就労、両方いっしょでもよいし、その方がよいはずです。とにかく問題を人の心の問題と見ないことです。気持ちを入れ替え、訓練すればなんとかなるなんて話を信じないことです。繰り返しますが、そんなはずないんです。
――ありがとうございました。(聞き手・石井志昂)

UP:20050413 http://www.arsvi.com/0w/ts02/2005018.htm

 

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