武芸者の七難について他
昨日、どこにいったかわからんと言ってた兵法者が越えなければならない苦難についてのテキストが見つかったのでやれやれ。せっかくなので忘備も兼ねてここに書いておく。
2012-08-30 21:01:47出典は薩摩に伝わる砲術流派・合伝流の伝書である「武教私言」。現物がなく、写本が鹿児島大学付属図書館にあるが、公開されてないので原文は不明。【鹿児島大学付属図書館コレクション-合伝流武教私言】http://t.co/JgAu9DZn 今回は戸部先生著「考証宮本武蔵」記載のものを使用
2012-08-30 21:07:56四、国々に合戦があれば、陣場を借りて手柄をあらわし、あるいは武芸者に逢えば仕合勝負を決し、あるいは辻斬り、強盗を切り伏せ、あるいは取り籠もる者を捕える
2012-08-30 21:13:35と、こんなところであります。現代語訳されてるので、文章が平易な感じですが。なお、これをこれが書かれたのは大体安永・文明の頃(1772~1788)というので、江戸時代も後期の頃になりま砂。その意味では、「戦国期の武芸者の心得」として扱うと、ちょっと微妙かもしれませんな。
2012-08-30 21:21:02むしろ、戦国期の武芸者の心得として上げるなら、ト伝兵法百首か石舟斎兵法百首辺りの方がまだ合ってるかも。まあ、石舟斎兵法百首は結構変り種なので、ト伝百首の方がいいかもで砂。なお、ト伝兵法百首は日本武道全集(1巻か2巻のどっちか)に全文が載ってま砂。
2012-08-30 21:28:40ト伝兵法百首がいくつか載ってたとこがあったのでご紹介をば。他の流派の道歌も載ってま砂。【道歌】http://t.co/pLW57ANQ 留意するべきなのは、ここでト伝が言及してるのは、「武士」の心得であって、「兵法者」の心得ではない、ということで砂。重複すれどもイコールではないと
2012-08-30 21:58:12あと、この合伝流ってどんな流派なの、と調べたところ面白い記事が。【南日本新聞-さつま人国誌「異端の軍学者 徳田邕興-島津の勇猛伝説にメス」】http://t.co/9efeM2XT この徳田邕興(小藤次)が合伝流開祖なのですが、藩主の怒りを買って奄美に十二年流されたりしてるので砂
2012-08-30 21:33:35【徳田はまず、戦国島津氏が勇猛で強かったという俗説を断固否定する。「薩州の士卒悉く鬼神にはあらざる故、一人にて十人の敵に切り勝つべき様なし」と述べて、薩摩兵児だからといって、一人で10人を倒せるはずがないと喝破する】
2012-08-30 21:36:56【それでも、敵に勝てたのは城下士も外城士も鉄砲に熟練し、みずから撃ったからだと述べる。鉄砲の活用こそが勝利の秘訣というわけである】
2012-08-30 21:37:43【義弘の戦法についても、「島津惟新(義弘)の戦法は、騎馬入れ、長柄鎗の業を用いず、諸士すべて鉄砲を携え持ち、鉄砲一色にて敵陣を打ち崩すのを第一とする」と、その特徴をつかんでいる】
2012-08-30 21:37:51【「前積り」とは、一種の事前準備のことで、いくさの前に、大将たちが陣所の前に出て、射手が10人ずつ、代わる代わるに鉄砲を撃てるように配置を定めて、混乱が生じないよう地面に印を付けておく。これらが「前積り」である】
2012-08-30 21:38:36【ところが、「鉄砲の前積りもなく、あわただしく急いで鉄砲を撃ち出してしまったので、多数の敵と揉み合いになって混雑し、惟新さまの備えと先手の豊久が離れ離れになり、お互いに救い合うこともままならず、豊久の討死も早すぎた。これは前積りを怠った誤りである」と、義弘と豊久を批判する】
2012-08-30 21:39:23【もっとも、「前積り」を周到にしたからといって、結果が劇的に変わったとは思えない。少数の島津軍に勝ち目はなかった。それでも、敵のことより、味方の大将がしかるべき手を打たず、最善を尽くさなかったことを指摘するあたり、徳田の面目躍如たるところで、さすがの義弘も形なしである】
2012-08-30 21:39:42と、まあ、こんな塩梅の事を主君(島津重豪)相手に言ったのと、あと、重豪が島津家の家風に残る蛮風を改めようと、甲州流軍学の導入を検討したところで、それが机上の空論であると言い、島津の旧制軍法を再評価したりしたこともあって、藩主の怒りを買った様子。
2012-08-30 21:43:30