暗落亭苦来の怪談噺「猿の眼」(原作:岡本綺堂)
今戸から四谷まで帰るのは難儀だろうということで父と母が声を揃えて井田さんに今日はうちにお泊りなさいと薦めて、井田さんもそれでは泊めていただきます、という事になったのでございます。
2012-08-27 20:49:30新しい家はなにぶんにも部屋数が少のうございますので、井田さんにはいつも父が使っている四畳半の離れ屋に床を延べて、ここでお寝みいただく事になりました。家の女中たちは女中部屋で寝る、わたくしはまだその頃は小娘ですので父母と三人で八畳の部屋に川の字に布団を敷きます。
2012-08-27 20:58:38で母が行燈の灯を落として、布団に入っておりますとだんだんと強まってくる雨と風の音、そして今戸の河岸ですので隅田川の水が雨で増えて、
2012-08-27 23:18:35「井田さんはどうなすったんでしょう」と母の声がして、「むう。なにか唸っているようだな」と父の応える声。
2012-08-27 23:25:35聞き耳を立てていると「ともかくも見にいってみよう」という父の声と共に手燭の灯りがぱっと灯りました。起きだしてみると母も布団に半身を起こして不安そうにしております。
2012-08-27 23:28:44父は手燭を持して傘も使わずに離れの四畳まで歩いて行き、「井田さん、井田さん」と呼び掛けて、そのまま離れの中で何か話す声が聞こえましたが、やがて戻って来て「井田さんも若いな。何かあの座敷にばけものが出たというのだ。冗談じゃあない」とうんざりした様子で言いました。
2012-08-27 23:35:12「まあ、どうしたんでしょう」と母がけげんな顔をすると、「若いといってももう二十二になる。いい歳をして夜中に人騒がせをしちゃあ困るよ」と父は笑ってまた床に就いてしまいました。
2012-08-27 23:39:31それで母とわたくしも又布団に戻ったのですが、まだ幼いわたくしは到底寝られたものではありません。あの四畳半の離れに本当になにか出たのかしら。お化けが出たのかしら・・・と怯えて縮こまっているうちにも、外からは隅田川の水の音がざぶーん・・・、ざぶーん・・・と響いてまいります。
2012-08-27 23:45:58早く夜が明けてくれればいいのに、と思ううちに、浅草寺の鐘がごぉーーん・・・、と夜中の鐘を撞きます。
2012-08-27 23:50:14と離れの四畳半の方からだしぬけに激しい物音がして、わたくしは思わず「ひっ!」と縮こまって布団を頭から被ってしまいました。
2012-08-28 23:30:59布団の中で震えていると「また騒いでいるのか。どうも困るな」と父が起き出してゆくのが聞こえましたが、すぐに慌ただしく「おい!おい!」と父の呼ばわる声がしたのでわたくしも思わず布団から起きだしますと、なんという事でしょう。父は寝衣のままで、びしょ濡れで泥だらけの井田さんを
2012-08-28 23:42:09井田さんはびしょ濡れのまま座り込んで、ただ真っ青な顔で肩で息をしているばかり。起き出して来た母もすぐに女中たちを呼び起こして井田さんの手足を拭かせる、新しい寝衣を持って来させる、わたくしは台所で水を汲んで来て井田さんに飲ませるとにわかに大騒ぎとなりました。
2012-08-28 23:49:30そうしたごたごたがひとまず収まって女中たちを下がらせた後、父がようよう落ち着いたらしい井田さんに一体どうしたのかと尋ねますと、井田さんはまだ血の気の引いた唇を震わせながらこう言い出しました。
2012-08-28 23:54:55「…いえ全く申し訳ございません。実はあの離れに床を取って頂いて、横になって暫くうとうと、としていると、誰かに頭の毛をこう、引き毟られるような」
2012-08-28 23:59:09「むしられる?」「はい。それで恐ろしくなってああっと声を上げたら宗匠が来て下さってひとまずは落ち着いたのです。でも物恐ろしくて寝付けませんので布団の中でじっとしておりますと、また」「…また?」「あの、小さな手が、なんだか子供のようなちいさな手が私の髪の毛を掴んで
2012-08-29 00:06:34物凄い力でぐいっぐいっと引っ張られまして。で私がわああ、とわめき立てましたらその手はぱっ、と離れたのです」 父と母も些か顔を青くして井田さんの話を聞いておりました。「…それで?それだけかい」と父が訊くと、井田さんはそうっと離れの方に顔を向けながら、
2012-08-29 00:13:58