芸術と批評と権威

岡崎乾二郎氏( @kenjirookazaki )とqual quelle氏( @qualquelle )の批評についてのツイート
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おかざき乾じろ @kenjirookazaki

なぜなら権威が働きかけるのは、必ずしも他者ではなく働きかける人自身にも再帰的に働く場合があるから。むしろ当人にすら抵抗することのできないものとして、それは、あらわれて働く(そして、そのほうが本来的)。一種の格律として。

2010-07-24 08:04:55
おかざき乾じろ @kenjirookazaki

いいかえれば。カントがそう考えたように、権威はいわば他者のように、格律として、権威をおびる人(AUTHOR)、自身の心(頭)に現れる。すなわち自己立法として。あるいは自己触発の力として。

2010-07-24 08:07:10
おかざき乾じろ @kenjirookazaki

事実。コジューヴも四つの権威の型をのべている。父(神学)、主人(ヘーゲル)、リーダー(アリストテレス)、裁判官(プラトン)。ヘーゲルの主人(と奴隷)モデルは別にしても、父、指導者、裁判官に、それぞれ権威はどう宿すのか、を考えてみればいい。

2010-07-24 08:08:15
おかざき乾じろ @kenjirookazaki

(コジェーヴも例にあげるように)例えばアリストテレスのいうリーダーの権威とは、遊びの発明者のようなものだ。『林檎をとってきて、それでキャッチボールをしよう、潰したら負けだ』。その遊び方はそれを言い出した本人しかとりあえず知らないのだから、みんな、とりあえず、それに従ってみる。

2010-07-24 08:11:44
おかざき乾じろ @kenjirookazaki

その遊びの発明者は、友達が一人もいなかったら(一人遊びでも)、自分自身がそのルールに従う(作品を作るときののように)。この意味で、作家とは自らが従うルールを自ら決める人である。その、自らを不自由にするルールの決定は、まさに自己触発的(自由に)に行う。

2010-07-24 08:13:14
おかざき乾じろ @kenjirookazaki

次に。プラトンの裁判官モデル(いかなる利害関係にもよらず、正義に従う)はカントのモデルにも繋がる。自らが決定する以上、裁判官は外的な法廷に依らず、自らの内に法廷をもつ必要がある。 自らの行為そして判断を判断する内なる法廷。

2010-07-24 08:17:35
おかざき乾じろ @kenjirookazaki

自分の心の中に、内なる法廷、そして、いわば内なる他者として裁判官を持たねばならない。自己触発による自己認識(これがアレロパシーということ)。行為を判定する裁判官である私と、行為が判定される被告としての私の二人の同居。

2010-07-24 08:18:33
おかざき乾じろ @kenjirookazaki

それぞれの権威は確かに様態としては異なるが、端的にいずれも学問、技芸に必ず存在する、ディシプリン(という行為)の自律性に関わる。いわば探求はいかに遂行されるか、 ディシプリン を可能にし、その行為を統御する。

2010-07-24 08:21:08
おかざき乾じろ @kenjirookazaki

繰り返しておくと、こうしたディシプリンの場で,椹木野衣さんが書いている『この作品が権威を持ちうるのは、それを素晴らしいと言う私が権威だからだ」という言い方(あのW杯のフランスチームでも)が、説得力をもつことも支配することは決してありえない。(いかに程度の低い美術大学でも)

2010-07-24 08:24:11
おかざき乾じろ @kenjirookazaki

例の『仕分け』とかさ、外的な承認とかさ、圧力とかさ、つまり政治、権力闘争にたとえ翻弄され、活動がぶれたってさ、こういうディシプリンの原理=としての権威が完全になくなることはありえない、

2010-07-24 08:27:08
おかざき乾じろ @kenjirookazaki

芸術の権威が(記述、批評を含む)制作行為を統制する理念としてだけ、存在(機能)するということ。その行為(ディシプリン)の中でのみ、権威として働く。特定の対象の価値づけ権威づけに用いられ機能するわけではない。

2010-07-24 08:36:41
おかざき乾じろ @kenjirookazaki

特定の対象に、わざわざ被せられる芸術という名には気をつけなければならないと。それはメッキとしての名にすぎず、まあそのように用いられても、芸術という名のメッキはすぐ剥がれるでしょうが。

2010-07-24 08:40:01
おかざき乾じろ @kenjirookazaki

.@qualquelle オミナエシ(女郎花)とキリンソウ(背高泡立草)、どちらも素敵(二十年前は区別がつかなかったもの)です。暮らしの周縁=文化の果てるところにそよぐさまが月にはたしかによく似合う 。

2010-07-24 19:38:53
qual quelle @qualquelle

QT @kenjirookazaki: …権威(AUTHORITY)については、単純に、自らを生みだす(した)もの、と考えればよい(というのが僕の見解です)。ゆえにAUTHOR(作者)という言葉も同じ派生語…。権威を、帯びた行為とは、単純に(他者からの強制なき)自由な行為である。

2010-07-26 06:48:58
qual quelle @qualquelle

.@kenjirookazaki Authorityには「面子」と訳し得る文脈もあるでしょうが、この語は「典拠」という意味も持っています。これらを重ね合わせてイメージすると、専ら引用あるいは仮面のみによって生成・維持される同一性というものが考えられます。

2010-07-26 06:49:56
qual quelle @qualquelle

.@kenjirookazaki 足元の影とか、ハンコの印影とか、投写映像としての「権威」。「自・他」とか「内・外」を隔てる境界・皮膜としての。

2010-07-26 06:50:35
qual quelle @qualquelle

RT @kenjirookazaki: 特定の対象に、わざわざ被せられる芸術という名には気をつけなければならないと。それはメッキとしての名にすぎず、まあそのように用いられても、芸術という名のメッキはすぐ剥がれるでしょうが。

2010-07-26 06:50:57
qual quelle @qualquelle

.@kenjirookazaki 或る種の芸術には、「特定の対象に、わざわざ被せられる」かつ「すぐ剥がれる」「メッキとしての名」という仮想的でエフェメラルな性格、何らかの境界とか経路でしかないような薄さがある訳です。

2010-07-26 06:52:16
qual quelle @qualquelle

.@kenjirookazaki そういう「芸術」は、それ自体としては不易に生まれ続けています。これに低さだけを見て済ます事は出来ないと思っています。

2010-07-26 06:52:51
qual quelle @qualquelle

RT @kenjirookazaki: .@qualquelle オミナエシ(女郎花)とキリンソウ(背高泡立草)、どちらも素敵(二十年前は区別がつかなかったもの)です。暮らしの周縁=文化の果てるところにそよぐさまが月にはたしかによく似合う 。

2010-07-26 06:53:13
qual quelle @qualquelle

.@kenjirookazaki 月光には、その場所を何かの果ての先、周縁、終わりのように見せ、そこにあるものを慎ましく懐かしいもの、何らかの時間的表象のように見せる、といったところがあるような感じがします。今夜は満月だそうですね。

2010-07-26 06:54:10
おかざき乾じろ @kenjirookazaki

.@qualquelle おはようございます。投影する起源としての権威は、父(神学的なものですね)、あるいは生殖的(歴史的)な権威ともいえる。過去→現在。過去は現在に影を投げかける(現象する)が、一方で、現在にはすでに存在しない。ここに権威が権威となることの秘密がある

2010-07-26 06:58:39
おかざき乾じろ @kenjirookazaki

.@qualquelle たしかに多くの メッキとしての芸術は、この神学的権威で照らし出された、影のようにふるまっているのかも。けれど、これは認識の論理であって、生産の論理ではない。父→子ではなく、子→父に遡行してしまう 働きを転倒しているだけ。

2010-07-26 07:01:20
おかざき乾じろ @kenjirookazaki

.@qualquelle 誰でも知っているように元々、父はそのようにしか存在しないのですが。子によって(真の)父は後から見い出される(作り出される)。父から子ではなく、子こそが父を生む。作家は父であることも母であることもない。作家、いや作品は断固として子であり、子こそが父を産む。

2010-07-26 07:09:37