芸術と批評と権威

岡崎乾二郎氏( @kenjirookazaki )とqual quelle氏( @qualquelle )の批評についてのツイート
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qual quelle @qualquelle

QT @kenjirookazaki: …現実的に観光として機能している観光も土木も、…芸術という名を必要としない。観光でありながら(ディズニーランドも国定公園も芸術という名など必要としない)、芸術という名称を使わなければならぬのは、それを明確に表示できない、弱さそのものの現れ。

2010-07-22 01:45:56
qual quelle @qualquelle

.@kenjirookazaki 芸術が偽善であるように、歴史も偽善ですね。まるで実態のない空虚、どこにもないもの、誰にも帰属し得ないものを、芸術と呼び、歴史と呼ぶ。そのような「批評」に守られる人がいて、同じものに脅かされる人もいる。そして両者は容易く交替する。

2010-07-22 01:47:56
qual quelle @qualquelle

QT @kenjirookazaki: 芸術批評をまともに行えば、「芸術」という語を自明の自同律「芸術は芸術である」として使うことはできない。たとえば美大の講評会で学生が「これは芸術です」といっても誰も取り合わないし、先生が学生に向かって「芸術だ」といっても相手にされない。…

2010-07-22 01:48:56
qual quelle @qualquelle

.@kenjirookazaki 死を語る事は出来ないように、空虚を空虚として語る事は出来ない。そこで空虚は、芸術を、歴史を、批評を要請するのだと思われます。

2010-07-22 01:49:40
qual quelle @qualquelle

QT @kenjirookazaki: …権威主義はそこでは成立しない。(権威ではなく政治=権力が存在することはあっても)。権威が行使されるのは外部に向けての言説。たとえば観光や土木業務に対しての言説。批評家が権威主義的になるのは批評家ではなく彼が啓蒙家として振るまうとき

2010-07-22 01:50:55
qual quelle @qualquelle

.@kenjirookazaki 権威は、外部の内面化でしょう。その有様は、バスタブに釣り糸を垂れる太公望といった風情でもあるでしょうか。「批評」という名の宇宙人、あるいは猫の、人類に対する惨烈な弱いものイジメは、そのような具合で行われ続けているのだと思われます。

2010-07-22 01:52:25
qual quelle @qualquelle

RT @kenjirookazaki: @qualquelle これがたとえば、批評それ自身の弱さです。批評それ自身の弱さが出現するのは、批評が歴史的言説を騙るとき(既成事実のように騙るとき)。それをまず、イジメるのは確かに批評の出発点です。

2010-07-22 01:59:12
qual quelle @qualquelle

.@kenjirookazaki 繰り返しのようになりますが、批評が弱いのではなく、批評(あるいは芸術や歴史)に拠って立つ人類が弱いのではないでしょうか。葦は弱い。なぜなら、考えるからです。しかし、考える他に弱さを知る事は出来ない。

2010-07-22 02:00:20
おかざき乾じろ @kenjirookazaki

.@qualquelle 昨日(朝)書いたことは、考えてみれば具体的には椹木野衣さんの書かれた http://bit.ly/aN0xiX への異和感が反映していました。(そこで扱われている現在開かれている展覧会や、個人には関わりありません)。単純に椹木さんの論の展開への異和です。

2010-07-22 02:23:11
おかざき乾じろ @kenjirookazaki

.@qualquelle(はじめまして、お会いしたことがありますか?)の言葉に刺激されて想起してしまったのです。椹木さんは〈悪い場所〉というのですが、むしろ悪さではなく、弱さ によって、作られる言説(論理)こそをそこに感じてしまっていたのではないか、ということです。

2010-07-22 02:24:15
おかざき乾じろ @kenjirookazaki

.@qualquelle 〈 考える葦〉というのはいいえて妙です。考える葦こそ、本来的な意味で、権威 です。

2010-07-22 02:45:28
おかざき乾じろ @kenjirookazaki

葦は考えても、どこにも行くことはできない。むしろ考えることは自らの存在の根を疑い(それは根から決して離脱も逃げることができない自覚に繋がり)、自らの生を腐敗させる力にすらなる。一方、権力は葦を引っこ抜くことはできても、自ら腐敗=発酵する、その葦の考えそのものを止めることはできない

2010-07-22 02:47:30
おかざき乾じろ @kenjirookazaki

一方Culture (文化)はcolere ,さらにcolonus を語源とし、(必然的に)colonialism(植民地主義)とも繋がる。いわば権威主義としての文化は葦を植えるという名目で他の土地へ侵入する。

2010-07-22 02:53:44
おかざき乾じろ @kenjirookazaki

だが Culture→colonialismにできることは(せいぜい、成長をおっかなびっくり脇から補助するくらいで)、収奪であって、葦 そのものの生機能(思考)を模倣することも、またそれを記述することすらできない。

2010-07-22 02:58:07
おかざき乾じろ @kenjirookazaki

一方〈考える葦〉は、自らの生をみずから殺す力をもっている(繁茂しすぎた、セイカタアワダチソウが自らアレロパシーを出し、絶滅するように)。つまり批評の権威とは自己批判(自己殺傷力)であるアレロパシーのようなもの。

2010-07-22 03:03:25
おかざき乾じろ @kenjirookazaki

(訂正→ セイタカアワダチソウ 背高泡立草)。それにしてもセイタカアワダチソウ はどこにいった?10年前までは、繁茂し、外来種(北アメリカ産)として嫌われたが自ら、唐突に姿を消した。ほんらいは明治時代には、観賞用として珍重されていた。

2010-07-22 03:08:19
大村益三 @omuraji

「自己批判(自己殺傷力)」としての「批評の権威」のメインステージは、「観光先」にではなく、恐らく「家庭」にこそある。

2010-07-22 06:32:21
大村益三 @omuraji

「批評」にもまた複数のフェイズがあり、それらはしばしば混同される。しかしそのフェイズの違いの最も大きなものは、「自己批判(自己殺傷力)」の有無に帰する。

2010-07-22 06:37:21
qual quelle @qualquelle

.@kenjirookazaki 岡崎さんが「考える葦」「批評」について言われた「本当の意味での権威」を、漱石は「徳義心」「清廉」「醜を忌み悪を避ける者」「礼儀作法」「人倫王常」などと言っているように思われます。漱石によれば、これらの属性を持つ存在の衰滅は不可避なのです。

2010-07-24 01:53:42
qual quelle @qualquelle

QT @kenjirookazaki: (訂正→ セイタカアワダチソウ 背高泡立草)。それにしてもセイタカアワダチソウ はどこにいった?10年前まであちこちの空き地繁茂し、外来種(北アメリカ産)として嫌われたが自ら、唐突に姿を消した。…

2010-07-24 01:54:46
qual quelle @qualquelle

.@kenjirookazaki アレロパシーは万人に平等に配分されている。ならば人類は、「ススキ」や「モグラ」や「ネズミ」との共存を恐れる事以上に、その絶滅を恐れない限り、自らも絶滅してしまうのでしょうか。

2010-07-24 01:56:31
qual quelle @qualquelle

QT @kenjirookazaki: …そもそも明治時代には、観賞用として輸入され珍重されていた。

2010-07-24 01:57:01
qual quelle @qualquelle

.@kenjirookazaki セイタカアワダチソウはキク科。様々な和菊(あるいは菊人形など)や変化朝顔のような江戸趣味の中で、これも愛されたものでしょうか。昨今は法面緑化や農薬原料として見直されつつあるとも言いますね。

2010-07-24 02:05:05
おかざき乾じろ @kenjirookazaki

追補しておこう。権威(AUTHORITY)については、単純に、自らを生みだす(した)もの、と考えればよい(というのが僕の見解です)。ゆえにAUTHOR(作者)という言葉も同じ派生語である。権威を、帯びた行為とは、単純に(他者からの強制なき)自由な行為である。

2010-07-24 07:58:06
おかざき乾じろ @kenjirookazaki

アレクサンドル・コジェーヴ(『権威の概念』)による、《権威とは一人の行為者が他の行為者に対して働きかけたとき、その他の行為者はその働きかけに抵抗することができない、ところのもの》という権威の定義は、政治的な作用としての『現象としての権威』分析を前提に狭義に限定されすぎている。

2010-07-24 08:01:31