- jonathanohn
- 13290
- 6
- 1
- 5
@sweets_street @murajidash @toronei それから魏の秘書制度の他に呉の大帝孫権が彼自身のパーソナリティ故に採用していたリスクヘッジ策としての「左右」官システムの採用とその乱用。当初は濫用するものじゃなかったんだろうけど、ほれ、下々は官位欲しいわけ。
2012-09-10 19:42:51@sweets_street @murajidash @toronei 諸葛亮治下では出来るだけ低コストで政府を運用しようという視線だったものがとにかく高位高官が増え、付属オプションが増え、その下に付けられる官吏が増えていった。蜀滅亡時の人口94万に対する官吏4万は多すぎ。
2012-09-10 19:47:01劉禅が240年あたりで死んでいたら、「寛仁にして謙退の心を備え、民はその徳沢に浴し、章帝の風有り」とか無難な評価になっていたと思う。諡号は康帝とか穆帝がよさそう。
2012-09-10 19:49:08@nisekuro_at @murajidash @toronei 諸葛亮時代に丞相府で抜擢した若手がずっと上に居座ってるのに、次の世代が出仕してくるからポストが足りないんですよね。せめて領土が広がれば宛てがえるポストも増えるんでしょうが
2012-09-10 19:49:38@sweets_street @murajidash @toronei 劉禅自身の政治姿勢は悪政を指向する要素が乏しく群臣の良さげな意見を採ろうとしてたのだろうが、それが統治システムの高コスト化を推し進めてしまったのは皮肉というか、陳寿の言う白糸のような君主だったというしか。
2012-09-10 19:51:53@nisekuro_at @murajidash @toronei 侍中尚書令の陳祗が権勢を振るったことからわかるように、劉禅は尚書令や秘書令を通じて権力を行使できる仕組みを作ってたんだと思います
2012-09-10 19:52:28@nisekuro_at @murajidash @toronei ひたすら政府内に不協和音が起きないように心を砕いた印象がありますね。良く言えば調和重視、悪く言えば事なかれ主義ですが。規模が小さくて内紛を起こしたらおしまいな蜀には合った統治スタイルだったんだろうと思います
2012-09-10 19:56:55@sweets_street @murajidash @toronei 後主伝246年、蒋琬逝去の所に注として乗っかってる「魏略」の蒋琬がなくなったので劉禅が自ら国事を見ることになったというのが、費禕・姜維のW録尚書事の処置や秘書省の拡充を示すのだろうと思っとります。
2012-09-10 20:00:09@nisekuro_at @murajidash @toronei 蔣琬失脚は誰の意思だったんでしょうね。劉禅の権力が拡大している結果を見ると、劉禅の意思であるようにも見えますが
2012-09-10 20:03:20@syagojo @sweets_street @murajidash @toronei いい臣下に恵まれましたね。それは劉備の遺徳、諸葛亮の遺産というばかりでなく、後主に徳があったからだと言ってもいいかもしれません。
2012-09-10 20:05:01@nisekuro_at @syagojo @murajidash @toronei 先代の遺産を使いこなせずに破滅した君主なんていくらでもいますしね
2012-09-10 20:05:40@sweets_street @nisekuro_at @murajidash @toronei 暴走を止めたようにも見えるし、そういった事件をいいことに強権発動して発言力拡大して権力の分散化を図ったようにも見えますね。劉禅の積極的な意思だとすれば結構辣腕かも。
2012-09-10 20:06:20@Golden_hamster @sweets_street @murajidash @toronei それについてはまた1テーマあるのですが分岐管理が苦手ゆえいつかまた。ただ、あの蒋琬の血を吐かんばかりの上表には涙が誘われます。
2012-09-10 20:06:44@Golden_hamster @nisekuro_at @murajidash @toronei 費禕はかなり権力を制限されてるし、他に力を大きく伸ばした人もいないから、劉禅の主導のもとの強権発動ではないかと思っています
2012-09-10 20:08:52@sweets_street @murajidash @toronei 蒋琬の上表を見るに蒋琬から劉禅への信頼関係は崩れていないようだし、病没するまで大司馬録尚書事だし、蒋琬死後は諸葛亮の丞相に続いて大司馬も欠番扱いになってるし。俺は費禕と彼を担ぎあげたグループだと疑ってる。
2012-09-10 20:11:27@sweets_street @nisekuro_at @murajidash @toronei 劉禅は自己の権力を拡大し、費禕は名実ともに最高位に付くことができ、姜維や馬忠も国政に絡むことが出来て、みんながWINしてますね。 し、蒋琬はホラ病気療養に専念できたし・・・
2012-09-10 20:12:15@Golden_hamster @sweets_street @murajidash @toronei 自分が安心して丸投げして任せた大司馬蒋琬の方針に群臣一同が反対するというおおごとになったので、以降の大権の付与には慎重になったという見方もできるし。
2012-09-10 20:14:17@nisekuro_at @murajidash @toronei 司馬の姜維まで蔣琬解任に関与してるから、費禕のクーデターとしたら相当上手く工作したものだと思います。それだけ根回ししたのに単独で録尚書事を持てずに開府も出来なかったのは不思議ですが
2012-09-10 20:14:31劉禅の印象激変しそう RT @sweets_street: @Golden_hamster @nisekuro_at @murajidash @toronei 費禕はかなり権力を制限されてるし、他に力を大きく伸ばした人もいないから、劉禅の主導のもとの強権発動ではないか
2012-09-10 20:11:33@syagojo @sweets_street @nisekuro_at @murajidash @toronei 個人的には費禕の方が印象激変の余地が大きいんじゃないかと思うくらいです
2012-09-10 20:14:15@Golden_hamster @nisekuro_at @murajidash @toronei 費禕が蔣琬に取って代われたわけじゃないから、劉禅が手元にいる尚書令の費禕と結託して起こしたと考えるのが自然であるように思います
2012-09-10 20:16:42@sweets_street @murajidash @toronei 同じことが費禕でも起きる可能性があるので慎重にしたというのが一つの可能性。もうひとつは蒋琬追い落としに費禕が絡んでいる以上、状況がはっきりするか安定するまでは様子見したという可能性が一つ。
2012-09-10 20:17:13@sweets_street @nisekuro_at @murajidash @toronei 費禕はいつも対立する二人の上げ潮の方に味方してもう片方を陥れてますからね。それが今回も炸裂したんだと思ってます
2012-09-10 20:18:57@nisekuro_at @sweets_street @murajidash @toronei 蔣琬を劉禅が選んだとは言い難い状況なので、「いつか一泡吹かせて権力奪い返すぞ」って思ってたところにおあつらえ向きの事態が起こって…と私は考えてはいますけどね。
2012-09-10 20:17:23@Golden_hamster @nisekuro_at @murajidash @toronei 年をとって自分なりの路線を歩きたくなった劉禅が力を強めていく蔣琬を見て「第二の諸葛亮になるのでは」と危惧して追い落としたのかもです
2012-09-10 20:21:08