【但し】曹操による鄴-邯鄲広域防御コンプレックス攻略から見る地政学【保留】
- jonathanohn
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或いは日本海海戦が起きずにバルチック艦隊がロシア極東艦隊と合流してしまった後の旅順要塞みたいなもんだと思えばいい。うわぁ、硬てぇ・・・。
2012-09-12 20:52:46見れば分かるが鄴を後方支援する邯鄲の広域防御コンプレックスのやっかいさは想像に如く通り。外郭の掘割水壕として漳水の雄渾な流れを引き宛て、それを越えたら戦国趙国長城遺構が塞壁となって立ちふさがり、そこを突破すれば内郭の掘割水壕として釜水の流れが引き宛てられ、
2012-09-12 20:53:04かつての趙国の都邯鄲が中心から周囲の諸都市を統括してる。更に言えば今回の状況ではこの邯鄲を中心とする広範なエリアを護る趙国長城遺構が途切れるあたり、東の翼端に易陽があって斥丘、列人、易陽、曲梁に連なる都市ラインで漳水を渡って邯鄲の懐へ抜けようとするあたりをしっかり押さえている。
2012-09-12 20:54:29西の翼端は本来なら武安ということになっていただろうが、今回は武安の県長である尹楷が毛城へ出張って上党からの補給を担当しているため、ここは渉県が防御拠点となっている。これも漳水と趙国長城遺構の微妙に邪魔くさいところに位置取りしていて西端からの侵入を防いでいる。
2012-09-12 20:55:39まあ、二度目の鄴攻めってか、もう袁尚が鄴へ撤退した段階で見送り撤兵してるのは「あれ、どうやって攻めんのよ・・・」と言う曹操さんの気持ちが表われているようで面白い。
2012-09-12 20:55:57とまぁ、鄴-邯鄲広域防御コンプレックスの硬さと攻略の難さを語ったところで話を戻す。 三度目の正直の鄴攻略。 建安九年(204年)の年明け。曹操動く。さて、この三度目の正直の鄴攻略に曹操はどんな新構想を以って取りかかろうとしたのか。
2012-09-12 20:56:16曹操の鄴攻略の新構想。これは後からその経緯を追っていくが、ぶっちゃけると「袁尚が袁譚攻めに向かった隙に攻め込み、袁尚が鄴に帰還する前に速攻で鄴を落とす」と言う身も蓋も無いもの。そしてその為に曹操側は二つの施策を施す。
2012-09-12 20:56:36一つは白溝の復活。淇水から水源を取って白溝に通水し糧道(兵站線)を確保。これまで何度も触れてが水運は陸送により何倍も低コストで大量輸送が利き、しかも早い。更に水運を利用して移動すれば軍の移動速度も騎兵とほぼ同じく出来る。呂布と陳宮はそれを以って下邳を急襲・奪取している。
2012-09-12 21:10:26曹操はこの白溝復活を、どうやら袁尚に気取られないよう準備を進めたものと見える。それというのも、三国志武帝紀(曹操の伝)では正月に黄河を渡ってこの白溝の復活作業に取り掛かっているのだが、袁尚はそれを気にした風でもなく、二月に鄴に審配と蘇由を留めて袁譚攻めに出立しているからだ。
2012-09-12 21:10:38史書では正月の内にすぐさま白溝に水を通したように描かれているが、これは叙述トリックのようなもので、実際としては白溝への通水に向けて色々下準備を始めたのが正月で、通水可能になってから白溝へ水を通すのは、袁尚が袁譚攻めに掛かり此方を顧慮出来なくなるのを待ってのことなのだろう。
2012-09-12 21:10:46そして、もう一つの施策は調略である。三国志では曹操が洹水に到達すると速攻で蘇由が降り、また鄴に到着して攻撃がはじまるとまた馮禮が寝返る。その詳細は三国志袁紹伝に詳しい。以下原文。
2012-09-12 21:10:54「太祖進軍將攻鄴,到洹水,去鄴五十里,由欲為内應,謀泄,與配戰城中,敗,出奔太祖。太祖遂進攻之,為地道,配亦於内作塹以當之。配將馮禮開突門,内太祖兵三百餘人,配覺之,從城上以大石擊突中柵門,柵門閉,入者皆沒。」
2012-09-12 21:11:03そのほぼ訳:「太祖が軍を進めて將に鄴を攻めんとし,洹水に到って,鄴を去ること五十里となったところで,蘇由は内応を為そうと欲したが,謀が泄れ,審配と<与>城中で戦い,敗れたため,太祖のところへ出奔した。太祖は遂に進んで之を攻め,地道を為し,審配も亦た内に於いて塹(壕)を作して
2012-09-12 21:11:19以って之に當ることとなった。審配の將である馮禮が突門を開いて,太祖の兵三百餘人を内へひきこんだ,審配は之を覺ると,城の上從り大石を以って撃ち突けて柵門に中てた,柵門は閉ざされ,入った者は皆(戦)沒した。」
2012-09-12 21:11:27実はこの記述の中で俺と司馬光センセで奇しくも?一致??している見方があって、その内応と出奔の経緯から蘇由と審配の争った城中と言うのは、若しかしたら鄴本城ではなく、鄴の付城、大阪城に対する真田丸のような出城
2012-09-12 21:11:42(三国志では小城と言う名で何箇所かに見える)みたいなものがあって、蘇由はそこを守っていたんじゃないか?ってこと。鄴の本城で起きた出来事ではないのではないか?と疑ったのか、司馬光センセはこの辺りを「蘇由は内応を為そうと欲したが,謀は洩れ,曹操のところへ出奔した。」
2012-09-12 21:12:17ともあれ、この立て続けの寝返りは調略によるものと考えられる。先に袁譚側からの提案で彼と約定を結んで袁尚を攻めたときのおり、既に袁家の行末を見限ったか、袁尚の将として陽平に駐屯していた東平出身の呂曠、呂翔が袁尚から叛き,其の衆を率いて降って列侯に封じられるということがあった。
2012-09-12 21:12:40曹操側はこの事態を見て袁尚側の切り崩しが可能と判断したものと見える。 ということで此処までの記述をざっくり纏めると、曹操の鄴攻略の新構想とは!
2012-09-12 21:12:55「袁尚が袁譚攻めに向かった隙に白溝に水を引き込んで兵站線と移動経路の高速化を図った上で『超』速攻で攻め込み、袁尚が鄴に帰還する前に、予め調略済みの諸将を立て続けに内応させて『超』速攻で鄴を落とす!!1!」
2012-09-12 21:13:04そして実際にその所期構想通りに事態は進んだのだが・・・。結果は・・・名将審配ガッチリセーブ! というわけで曹操の所期構想はあっさり崩れてしまった。どうする曹操?!
2012-09-12 21:13:15所期構想が潰えてしまった曹操は「ええい!ままよ!」と思ったのかどうか。このまま互いの知力を尽くす攻城戦に移行する・・・わけだが。ここで俺は大司馬光センセに叛旗を翻す。袁尚の主簿であった李孚の動きについてだ。
2012-09-12 22:19:06通鑑は彼の行動を秋七月、曹操が鄴の周囲に環壕を作って漳水の水を引込み水攻めした後のこととして記述している。実際、この典拠元は三国志賈逵伝の裴注に引く魏略で、そこでも袁尚が鄴救援に引き返そうかという記述の中の出来事として描かれている。
2012-09-12 22:19:12だから司馬光センセもそこにこの出来事を収めたのだろう。が、しかし。これ李孚が策を用いて鄴内へ入りこむ経緯とやはり策を用いて鄴外へ脱出する経緯を見ると、環壕が完成して水攻めされている最中だとやれそうにない中身なのよ。
2012-09-12 22:19:18