"What is a Theory of Meaning? (I)"について
-
Zahlangabeheft
- 1785
- 0
- 0
- 0
![](https://tgfile.tg-static.com/static/web/img/placeholder.gif)
意味理論は、(1)言語を知るとは、何を知ることなのか(知識内容の表示)、(2)その知識を持つということは、どのような実践的能力をもつということなのか、という二つを表示しなければならない。(1)のみを行うのがつつましい意味論、(2)を行うのが徹底した意味論である。
2012-07-27 00:15:55![](https://tgfile.tg-static.com/static/web/img/placeholder.gif)
デビの真理条件意味論はつつましい意味論である。その理由は、次のように説明される。まず、個々のT-文について、文が真であると知ることと、文が表現する命題が真であることは異なる。T-文が真であると知ることそのものは、if and only ifという表現と統辞論についての知識さえ
2012-07-27 00:17:37![](https://tgfile.tg-static.com/static/web/img/placeholder.gif)
WTM(I)はまず,三つのパートに分かれる:pp. 1--10で基本概念を用意して,pp. 10--20でデイヴィドソン批判,pp. 20--23でまとめと余談.デイヴィドソン批判はさらに二つに分かれてて,→
2012-07-27 10:29:07![](https://tgfile.tg-static.com/static/web/img/placeholder.gif)
→一つは真理理論の公理は意味の説明として循環しているという批判(pp. 10--15),もう一つはデイヴィドソンの全体論に対する批判(pp. 15--20).この両者の論点を区別しておいた方が混乱しなくてすむ.→
2012-07-27 10:35:22![](https://tgfile.tg-static.com/static/web/img/placeholder.gif)
→「デイヴィドソンが意味理解を〈持つ〉とはどういうことかを特徴づけていない」という論点は,全体論批判の文脈で,つまりデイヴィドソン説を全体論的意味観に基づいて解釈してはじめて出てくる論点.デイヴィドソン説が「つつましい意味理論」だというのはそういう解釈に依存しない論点.→
2012-07-27 10:43:30![](https://tgfile.tg-static.com/static/web/img/placeholder.gif)
→「つつましい意味理論」の特徴づけは,「対象言語の言葉の表す概念の説明をしない意味理論」だと書いてある(p. 4f).つまり,意味理解と概念の把握を分離して,意味理論のタスクから後者を抜きましょう,というのが「つつましい意味理論」のアイデア.という点は押さえておくべき.
2012-07-27 10:48:56![](https://tgfile.tg-static.com/static/web/img/placeholder.gif)
@Zahlangabeheft ということは、つつましい/徹底した という二項対立は、「意味を持つ」ということがいかなる実践的能力なのか、ないし、「意味を持つ」ということがいかに表出されるのか、とは関係ないということですか?
2012-07-27 13:46:01![](https://tgfile.tg-static.com/static/web/img/placeholder.gif)
@silver_pork 「意味を持つ」というのは「意味理解を持つ」のことですかね.いずれにせよ「つつましい/徹底した」の対比は,直接は表出概念とは関係していないと言えます.傍証をもう一つ:『形而上学の論理的基礎』の「つつましい意味理論」についての議論には「表出」は出てきません.
2012-07-27 20:06:11![](https://tgfile.tg-static.com/static/web/img/placeholder.gif)
まず、「「雪が白い」は雪が白いことを意味するのだから、「雪が白い」が何を意味するかを知るためには、「雪が白い」が雪が白いを意味することを知らねばならない。その意味で、M-文は知識の対象を正しく捉えて入る。
2012-07-31 22:29:05![](https://tgfile.tg-static.com/static/web/img/placeholder.gif)
だが、「雪が白い」の意味を知るために知るべきことについて、「雪が白い」の意味を知るためには、M-文の知識が必要であると言ったからと言って、何か説明力のあることは言えていない。
2012-07-31 22:29:51![](https://tgfile.tg-static.com/static/web/img/placeholder.gif)
まず、「M-文の知識」について、我々は「M-文が真であると知っている」状況と、「M-文の表現する命題を知っている」状況を区別する必要がある。そして、我々は「意味する」という語を理解してさえいれば、「雪が白い」の意味を知っていなくても、M-文の真を知ることはできる。
2012-07-31 22:32:00![](https://tgfile.tg-static.com/static/web/img/placeholder.gif)
従って、「雪が白い」の知識は、M-文が真であることの知識ではなく、M-文が表現する命題の知識と考えられねばならない。そして、文が真であることの知識が、表現する命題の知識になるためには、文が真であるという知識があるカノニカルな仕方で得られている必要がある。
2012-07-31 22:34:06![](https://tgfile.tg-static.com/static/web/img/placeholder.gif)
M-文については、M-文が真であることの知識に、M-文に現れる文の意味の知識―「雪は白い」の意味の知識―が加わって、M-文が表現する命題の知識となる。つまり、M-文による文「雪は白い」の意味の知識の説明は、M-文が真であることの知識+当の文の意味の知識、となる。
2012-07-31 22:36:43![](https://tgfile.tg-static.com/static/web/img/placeholder.gif)
だが、これはあきらかに、説明されるべき当の過程を説明の中で使っているし、その結果としてM-文はこの説明の中で何の役割も果たしていない。従って、M―文は文の理解を説明するものとしては使えない。
2012-07-31 22:37:39![](https://tgfile.tg-static.com/static/web/img/placeholder.gif)
正確には「M文の表す命題の知識を「雪は白い」の意味の知識から独立に特徴付けないと,「雪は白い」の意味の知識を前者の知識として説明できない」かな.RT @otb_btb …M-文による文「雪は白い」の意味の知識の説明は、M-文が真であることの知識+当の文の意味の知識、となる。
2012-08-01 00:14:15![](https://tgfile.tg-static.com/static/web/img/placeholder.gif)
@otb_btb 大体OKと思います.ただこの後,「べ,別にデイヴィドソンがM文の表す命題の知識として意味の知識を説明してると思ったわけじゃないんだからね!」という話になるので注意が必要と思います.
2012-08-01 00:16:12![](https://tgfile.tg-static.com/static/web/img/placeholder.gif)
@silver_pork そうなんだけど,その前に5ページくらい議論があって,ここは一応全体論とは独立した議論と言えます.
2012-08-01 00:20:05![](https://tgfile.tg-static.com/static/web/img/placeholder.gif)
この一文はM文による意味の説明の批判には効いていない.RT @otb_btb …そして、文が真であることの知識が、表現する命題の知識になるためには、文が真であるという知識があるカノニカルな仕方で得られている必要がある。
2012-08-01 00:00:43![](https://tgfile.tg-static.com/static/web/img/placeholder.gif)
@Zahlangabeheft M-文の命題の知識=M-文が真であることの知識+当の文の意味の知識 であることを示すために必要ではないですか?
2012-08-01 00:05:21