「被曝の真実」命懸け問うた科学者の遺言

『放射線被曝の歴史』(中川保雄)より http://www.akashi.co.jp/book/b94582.html
11
前へ 1 2 ・・ 11 次へ
放射線被曝の歴史 @YNakagawa_bot

アメリカ原子力委員会が人と金の両面から支配する形が整えられて、戦後アメリカの放射線被曝防護問題の基準づくりが開始された。②

2012-09-27 23:31:02
放射線被曝の歴史 @YNakagawa_bot

一九四〇年に、X線およびラジウム防護諮問委員会を線量引き下げ決定へと動かしたものは、「耐容線量」に対する遺伝学者からの強い批判であった。②

2012-09-28 02:30:59
放射線被曝の歴史 @YNakagawa_bot

放射線被曝により遺伝的影響が発生すること、しかも被曝線量に比例することを、他のどの分野の科学者よりも早くかつ深刻に受けとめたのは遺伝学者たちであった。②

2012-09-28 05:30:59
放射線被曝の歴史 @YNakagawa_bot

アメリカのバークレー放射線研究所は、放射性同位元素を世界中に供給しはじめたが、ロックフェラー財団や、デュポンなどの科学独占体の利益を代表する化学財団は、バークレーの大型サイクロトロンの建設に資金を提供するなどして、巨大な資本を必要とする放射線分野に進出しはじめた。②

2012-09-28 08:31:05
放射線被曝の歴史 @YNakagawa_bot

一九三八年にウランの核分裂が発見されると、カーネギー・メロンやモルガンの大財閥も原子力分野に触手を伸ばしはじめた。②

2012-09-28 11:31:02
放射線被曝の歴史 @YNakagawa_bot

それらの金融独占体の下にあるユニオンカーバイド&カーボン、モンサントなどの化学独占体、ゼネラル・エレクトリック(GE)、ウェスティングハウスなどの電機独占体が、新たに原子力産業分野へと乗り出した。②

2012-09-28 14:31:03
放射線被曝の歴史 @YNakagawa_bot

放射線に曝される産業分野で働いた人たちや放射線の治療・診断を受けた患者の間では、すでに一九三〇年代から放射線障害が発生しはじめていた。それとともに「耐容線量」への疑問もふくらみだした。②

2012-09-28 17:31:03
放射線被曝の歴史 @YNakagawa_bot

放射線利用産業、また新たに巨大産業として急成長していた原子力産業の利益を重視したために、そして何よりも原子爆弾の開発のために、「耐容線量」の見直しは後回しにされたのである。②

2012-09-28 20:31:05
放射線被曝の歴史 @YNakagawa_bot

戦後放射線被曝の問題の議論は、放射線遺伝学者を中心とする専門家の狭い世界から、原子爆弾と核戦争に反対する広範な人びとの世界へと広がった。その中で、ある値以下なら影響はないとする「安全線量」など存在しない、と耐容線量への批判が大きく広がった。②

2012-09-28 23:31:04
放射線被曝の歴史 @YNakagawa_bot

再編成されたNCRPは、核兵器の放射線と人類の将来という問題に、どのような見解を出すかが問われることとなった。そこでNCRPの指導者たちがまずとった戦術が、先に述べたように、アメリカ原子力委員会の支配する組織体制を築いたうえで、批判派のマラーを抱きこむことであった。②

2012-09-29 02:30:58
放射線被曝の歴史 @YNakagawa_bot

NCRP執行委員会は、体制を固めた一九四七年になって、マラーを第一小委員会のメンバーに加えた。もちろんそれは、批判派に対する巧妙な分断策であった。②

2012-09-29 05:30:59
放射線被曝の歴史 @YNakagawa_bot

NCRPの主委員会は、全米の関連する学会・協会から代表を受け入れていたが、耐容線量批判で固まっている遺伝学会には、代表派遣の招請を決して行おうとはしなかった。②

2012-09-29 08:31:06
放射線被曝の歴史 @YNakagawa_bot

IXRPCは、放射線関連学協会を主体として、放射線による職業病を防ぐために生まれた。それは、被曝防護のための、科学者たちによる学術組織と言えた。しかしICRPは、アメリカを中心とする三国協議、すなわちマンハッタン計画の戦後のいま一つの産物であった。③

2012-09-29 11:31:03
放射線被曝の歴史 @YNakagawa_bot

放射線防護のための戦後の国際的体制は、アメリカの主導の下に、核兵器と原子力開発の推進者たちにより、その推進体制に沿うものとして生み出された。ICRPは、かつての科学者の組織から、それを隠れ蓑とする原子力開発推進者による国際的協調組織へと変質させられたのである。③

2012-09-29 14:31:02
放射線被曝の歴史 @YNakagawa_bot

耐容線量の考えは、放射線突然変異の発見を契機として崩壊した。耐容線量が使えないとみたアメリカの放射線防護関係者の間では、「最大許容線量」という用語が、一九三〇年代の半ば以後、使われていた。③

2012-09-29 17:31:02
放射線被曝の歴史 @YNakagawa_bot

許容線量という概念が公的に採用されたのは、NCRPの第一小委員会の名称に許容線量という語をあてた一九四六年のことである。しかしそのときは、許容線量の意味する内容が定まっていたわけではなかった。③

2012-09-29 20:31:04
放射線被曝の歴史 @YNakagawa_bot

これは、核兵器による支配を推し進めようとするものにふさわしい考えである。それは、原子力開発の推進のためには少々の犠牲もやむをえない、とする思想から生み出されたものである。③

2012-09-29 23:31:04
放射線被曝の歴史 @YNakagawa_bot

「平均的人間」を基準に据えると称して、放射線に最も弱く、したがって防護においては最も重要視しなければならない胎児や赤ん坊をはじめとする弱者を切り捨てる思想から誕生した。③

2012-09-30 02:30:58
放射線被曝の歴史 @YNakagawa_bot

被害が生じることがわかっていても、その被害者を“平均以下”の人間として切り捨て、社会の発展のためにはその蛮行も許容されるべきであると、多数の「平均的人間」に思い込ませる。③

2012-09-30 05:30:59
放射線被曝の歴史 @YNakagawa_bot

許容線量とは「がまん線量」である、と評価することは正しくない。我慢とは、自ら耐え忍ぶことである。許容線量は、前述のような強権的思想をもとにして、原子力推進側が国民に我慢を強制するものなのである。③

2012-09-30 08:31:06
放射線被曝の歴史 @YNakagawa_bot

アメリカ原子力委員会は、核兵器の開発と生産を進めるとともに、そこで働く労働者を管理する責任も負っていた。後者の目的から生み出された許容線量の考えが、前者の核兵器開発とどのように関係したのか。③

2012-09-30 11:31:03
放射線被曝の歴史 @YNakagawa_bot

許容線量が、アメリカの原子力産業にとってどのような経済的意味をもっていたかを考えると、核兵器の開発と許容線量との結びつきがよくわかる。③

2012-09-30 14:31:02
放射線被曝の歴史 @YNakagawa_bot

水爆の開発を進めつつあった原子力委員会は、マンハッタン計画を上回る勢いで開発費を投じはじめていた。一九四八年に戦後はじめて増加傾向へと転じた原子力予算は、一九五一年までの総額が二六億ドルに達し、あのマンハッタン計画の二二億ドルを軽く上回った。③

2012-09-30 17:31:02
放射線被曝の歴史 @YNakagawa_bot

それは、一方では原子力産業を肥大化させ、膨大な政府資金を介して大学や公的機関の研究所と結びつく軍・産・学複合体を形成させることにつながったが、原子力委員会の財政上の観点からは放置することのできない頭の痛い問題であった。③

2012-09-30 20:31:04
放射線被曝の歴史 @YNakagawa_bot

耐容線量は、科学的に維持できなくなっていたが、同時にその建て前、いかなる放射線の害も発生しないしさせない、という考えで被曝防護策を運用することは、経済的な理由からも不可能になっていたのである。③

2012-09-30 23:31:04
前へ 1 2 ・・ 11 次へ