「昭和7年(1932年)懐中日記」を読む。

祖父か祖母の古い手帳です。そこに書き込まれた内容ではなく手帳そのものの紹介です。「まとめ」の練習を兼ねています。(まだ続きます)
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道草クー太郎 @KutaroMichikusa

昭和5年(1930年)の人口トップ都市は大阪市で245万人、東京市は207万人である。大阪市民は当時の呼称「大東京」にならって「大大阪」と呼んだらしい。大阪人のナショナリズムを刺激しそうな順位だが、喜んではいけない(笑)

2012-09-29 19:33:02
道草クー太郎 @KutaroMichikusa

東京市が2位に甘んじた原因は1923年の関東大震災による人口減と大阪への流出、それと並行した大阪市の郡部編入にある。震災前1920年の東京市人口は217万人、大阪市は125万人なのだ。

2012-09-29 19:34:11
道草クー太郎 @KutaroMichikusa

東京大阪以下の人口順位は名古屋(91万人)、神戸、京都、横浜(62万人)ときて第7位が広島市の27万人。広島市は12年後の昭和17年にピーク人口42万人に達し、それから3年後に原爆が落とされた後の底人口は14万人に満たなかった。

2012-09-29 19:35:02
道草クー太郎 @KutaroMichikusa

主要都市が人口順に100件超掲載されているが、群馬は前橋・高崎・桐生(5.2万人)の3市あるのに対し、埼玉は川越(3.4万人)のみ。なぜかリストの最後尾に「浦和町」とある。人口2.5万人。主要都市なのに「町」なのは浦和だけ。やはり埼玉は田舎であった

2012-09-29 19:36:10
道草クー太郎 @KutaroMichikusa

これに対し、北海道夕張町の人口は5.2万人である。同時期の八王子・水戸・千葉・秋田・尼崎などより多い。北海道最大人口都市は函館の19.7万人であり、これに札幌(16.8万人)、小樽(14.4万人)が続く。北洋漁業が経済を支えていた時代の札幌は影が薄い。(また続く)

2012-09-29 19:37:40
道草クー太郎 @KutaroMichikusa

手帳ネタで若干の追記。この手帳には書き込みが残っていない。何か所かページが破り取られている部分に何か書いてあったのかもしれない。だから持ち主は祖父か祖母か分からないのである。 http://t.co/8t1KHKjQ

2012-09-29 20:30:27
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道草クー太郎 @KutaroMichikusa

祖父と祖母が出会ったのは関東大震災の焼け跡である。祖父は千葉の網元の三男坊だか四男坊。祖母は、震災後の材木需要に応じて東京に進出した秩父の材木商の娘。焼け跡でどういうロマンスがあったかは父母も知らないが、私が存在する理由の一つに震災があることは間違いない。

2012-09-29 20:31:45
道草クー太郎 @KutaroMichikusa

震災前後の東京と大阪の人口変動、原爆投下前後の広島の人口変化、それぞれ災厄で失われた人口を上回る「数の変化」がある。夕張や函館等、北海道における人口分布の変動も、新たな人生を求る人々の流動性を示すものだろう。(本日はここまで)

2012-09-29 20:32:51
にゃつこ先生 @nya2co_

.@KutaroMichikusa さんの「「昭和7年(1932年)懐中日記」を読む。」をお気に入りにしました。ロバート・サウジーの名言が印刷されてるなんて! http://t.co/98AEQvtK

2012-09-29 23:54:07
にゃつこ先生 @nya2co_

う~ん、おもしろい。本邦の高層建築物にある「依佐美無線電信塔」は、太平洋戦争開戦暗号「ニイタカヤマノボレ」を送信したとされる鉄塔のよう RT @KutaroMichikusa: もう少しデータを小さくできるかも http://t.co/mxpXhCRB

2012-09-30 00:39:03
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暗殺と十五年戦争の前夜

道草クー太郎 @KutaroMichikusa

(1932年の手帳続き)「昭和7年版」のこの手帳を読む際に注意すべきことがある。それは、これが出版されたのは前年の昭和6年10月であり、編集されたのはそれより前だということ。だから昭和7年はもとより6年の出来事でも抜け落ちているものがある。

2012-09-30 13:39:43
道草クー太郎 @KutaroMichikusa

例えば、「政治的暗殺」の項に前総理浜口雄幸は「一命を取り止むるを得た」と末尾に記されている。この事件は昭和5年の出来事だが、浜口が死亡たのは翌6年の8月であり、7年の手帳には間に合わなかったのであろう。 http://t.co/PEeRUrQG

2012-09-30 13:43:44
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道草クー太郎 @KutaroMichikusa

手帳出版に間に合わなかった昭和6年の出来事に、同年12月の犬養毅内閣成立がある。手帳にある「現内閣員」名簿は第二次若槻礼次郎内閣の閣僚名簿である。翌年2月に暗殺される井上準之助蔵相や(些末ながら)小泉純一郎の祖父である又次郎逓信相の名もある。

2012-09-30 13:45:00
道草クー太郎 @KutaroMichikusa

血生臭くなってきた。現代にまでその影響を及ぼすことになる世界史的事件・満州事変はこの手帳出版直前の昭和6年(1931年)9月18日に始まった。戦後になって鶴見俊輔が「十五年戦争」と呼称したカウントの起点となる事件だ。http://t.co/esJoyGfB

2012-09-30 13:47:50
道草クー太郎 @KutaroMichikusa

また、この手帳が市民の手にあった昭和7年(1932年)には前述した井上暗殺(血盟団事件)や海軍将校らによる5.15事件が発生する。犬養毅内閣はこの手帳にも、おそらく翌年の手帳にも現内閣として名前が載ることなく短命に終わる。

2012-09-30 13:48:22
道草クー太郎 @KutaroMichikusa

ここで手帳にある昭和6年の「御歌会始」から歌を引用しておこう。天皇「ふる雪に こころきよめて安けらき 世をこそいのれ 神のひろまへ」 皇后「みやしろの 鳥居につもる白雪を つばさにはらひ 鳩のとびたつ

2012-09-30 13:49:15
道草クー太郎 @KutaroMichikusa

しかし時代はファッショと破滅戦争にまっしぐらである。コミンテルン・日本共産党は天皇制打倒の革命綱領「32年テーゼ」を打ち出し、右も左も連れ合うように先鋭化する。それと並行して32年には野呂栄太郎らの「日本資本主義発達史講座」の刊行、戸坂潤らの唯物論研究会も設立される。

2012-09-30 13:50:13
道草クー太郎 @KutaroMichikusa

もう一つ手帳から落ちているものを挙げておこう。それは、明治維新以降日本資本主義形成の立役者であった渋沢栄一(昭和6年11月死去)が手帳の「名士哀悼録」に無いことである。算盤だけでなく論語も手にした渋沢のこの時期の死は印象的である。 http://t.co/ExoJuK1Y

2012-09-30 13:51:33
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道草クー太郎 @KutaroMichikusa

この手帳、さらっと紹介するつもりだったのにタイムマシンで拉致されたようで抜けられなくなった(汗)

2012-09-30 13:52:30

皇室御下賜金に見る災害の国

道草クー太郎 @KutaroMichikusa

(1932年の手帳続き)昨日のツイートは手帳の時代背景を考えるために手帳から離れた話が多かったが、やはり「手帳から時代を見る」が基本だ。「皇室御下賜金」(昭和5年)の一覧というのがある。 http://t.co/b29PkdiQ

2012-10-01 22:35:52
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道草クー太郎 @KutaroMichikusa

皇室の慈善活動は戦後の風習かと思い込んでいたが、戦前からやっていたことだったと知る。これを見るとその年の激甚災害も分かる。九州地方の台風災害、静岡には震災。この震災は別のページに欄が設けられているが、11月に発生した北伊豆の地震だ。

2012-10-01 22:38:16
道草クー太郎 @KutaroMichikusa

「近年稀有の激震で被害甚大、死者二百数十名を見るの惨状」とあるが、調べてみると「近年稀有」はちょっとおかしい。この頃は2~3年間隔で大きな地震が続いているではないか。 http://t.co/zU1JEqvz

2012-10-01 22:39:45
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道草クー太郎 @KutaroMichikusa

1923年関東(M7.9)、1924年丹沢(M7.3・死者19)、1925年北但馬(M6.8死者428)、1927年北丹後(M7.3死者2925)、そして1930年がこの北伊豆(M7.3死者272)。この地震の翌年西埼玉(M6.9死者16)で3年後昭和三陸地震(M8.1)である。

2012-10-01 22:41:30
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