日本政治と社会倫理について浦井氏と蕩尽伝説氏の議論

社会倫理についての鋭い指摘がされていたので遡ってみたところ、米国による原発ゼロ撤回要求に始まった模様。 あまりの展開の広さに思わずまとめました。 一方まとめ人は戦後をリアルに語るには若輩過ぎ、知見もベルグソンまでしかついて行けませんでした(;´∀`) 元TWはTogetterで拾えませんでしたが下記です 続きを読む
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蕩尽伝説 @devenir21

@KenUrai 「現在福島に押し付けていること、沖縄に押し付けていること、そして我々が当然のごとく依拠しているものに、まず我々は責任と主権を持つべきです」戦後ずっと外に押しつけ、意識の外に追いやってきたもの、抑圧されてきたものが津波のような勢いで今ここに回帰しつつあります。

2012-10-02 00:53:13
蕩尽伝説 @devenir21

@KenUrai この抑圧されたものの回帰を自覚的に受け止めることが責任を担うということであり、その責任の取り方にこそ真正の自我が生じる機運がある。自我の形は多様ですが、国家はそれを受け止め、飛躍させる器量を持たねばならぬ。メディアであり、器でなければならぬ。

2012-10-02 00:54:50
蕩尽伝説 @devenir21

@KenUrai 国家とは器であり、内に向け閉じられ、同時に外へ開かれている。自我もまた同じで、外に開かれてつつも内に閉じる構造を持つ。いわば他なるものとのエッジにおいて自我と国家がイゾモルフィックなかたちで出会う契機がある。田辺元の種の論理はそんな臨界に関わっていました。

2012-10-02 01:06:58
@slitsandfrills

横スレ恐れ入ります。お話の流れを把握しておりませんが、国家と社会をイコールで結び付けるのはいかがかと思われました。自我の外部投影として社会や国家があるという御説に異論はございません。@devenir21 @KenUrai

2012-10-02 11:22:03
Ken Urai @KenUrai

@slitsandfrills @devenir21 いえ、「国家」と「社会」がイコールでないところに「国家」の存在意義があるというのが、ここでの話とお考え下さい。田辺の「種」は、普遍たる全体=人類と特殊たる個体=個人の間に「種」が媒介として無ければならぬという話であります故。

2012-10-02 11:45:45