日本政治と社会倫理について浦井氏と蕩尽伝説氏の議論

社会倫理についての鋭い指摘がされていたので遡ってみたところ、米国による原発ゼロ撤回要求に始まった模様。 あまりの展開の広さに思わずまとめました。 一方まとめ人は戦後をリアルに語るには若輩過ぎ、知見もベルグソンまでしかついて行けませんでした(;´∀`) 元TWはTogetterで拾えませんでしたが下記です 続きを読む
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蕩尽伝説 @devenir21

@KenUrai 若者に感受されるものは、じつは老人や女性にもある。無意識の発露するところには常に古層の反映がある。しかるにそれは知性により表現に齎されねば無力で、そんな表現には無数の途がある。言語以前の層から力を汲み出す。この意味での表現が全体に弱まっているのは事実でしょう。

2012-09-28 07:14:26
Ken Urai @KenUrai

@devenir21 ご指摘の通り、実は老若男女、全てにあると思います。そして、知性により表現に齎されるという意味で一つ申し上げれば、彼・彼女らは、「論理的に正しい」ということに対し、一定の敬意を払いますが、最終的に絶対的な敬意を払わないのです。これは素晴らしいことだと思います。

2012-09-29 03:15:46
Ken Urai @KenUrai

@devenir21 論理的に正しい、ということに対して、それなりの敬意は払うが、絶対的な敬意は払わない。論理の限界をあらかじめ知り得ているということは、極めて大事な事であると思います。このことを、ほとんど確信として知り得ているということを、日本人はもっと基礎にすべきと思います。

2012-09-29 03:23:45
蕩尽伝説 @devenir21

@KenUrai 日本人は皆反知性主義です。然るに現代文明は高度に理知的で、折合いを付けるには新しい知性の形が模索されねばならない。京都学派はその試みの1つだった。いまやそんな努力は水泡に帰し、一方にアメリカ流合理主義、他方は前近代的な蒙昧主義に分裂、知性は一顧だにされぬ有り様。

2012-09-29 13:35:38
蕩尽伝説 @devenir21

@KenUrai 論理の限界にも色んな水準があり、ニュートン物理学におけるのと素粒子物理学におけるのでは異なる。一般に論理への理解が非常に古く固定的で、まさに江戸時代で終わっている印象。だから高度情報社会に必要とされる論理に対応できず、その先端から脱落しつつあるのだと思います。

2012-09-29 13:42:53
Ken Urai @KenUrai

@devenir21 論理の限界を知り、反知性主義を心の底から憎まなければなりません。現在の日本に目立つのは、論理の限界をわきまえず、出来合いの合理性を振り回し、大衆を軽蔑する専門人や知識人と、逆に知性を突き詰める努力を怠り、安易な現状肯定や保守主義に走る危険な風潮であります。

2012-09-29 16:28:43
Ken Urai @KenUrai

@devenir21 いずれ知の意義が、その限界とともにあることを忘れた議論や立場が、現代日本に蔓延しております。学問や知の追求は、本来これは「道」として位置づけられねばならないものです。ご指摘の、京都学派は確かにそのような試みであったと思います。今からでも見直すべきです。

2012-09-29 16:32:08
蕩尽伝説 @devenir21

@KenUrai まさに仰るとおりだと思います。人間の命とは知性の命です。知性を蔑ろにする社会は生命を失います。

2012-09-29 16:33:10
蕩尽伝説 @devenir21

@KenUrai 戦後とは戦前の先人の叡知が無化されてゆく精神の貧困化の過程でした。大衆化は文明の避けがたい動向ですが、これを受け止めつつ、また過去の知的達成を我が物としつつ、知性をさらに豊かにして行く努力が必要だった。しかるに行なわれたのは戦前の否定と切り捨てだけ。

2012-09-29 16:39:06
Ken Urai @KenUrai

@devenir21 (1/3)西田幾多郎の「我と汝」の問題は、「主客」ひいては「全と個」における二元論からの脱却であり、田辺元の「種の論理」は更にそれを進めそこに「媒介」として必要なものを示しました。こうした思想は今日の安易な合理主義を排するために、最も必要なものと思います。

2012-09-30 22:31:04
Ken Urai @KenUrai

@devenir21 (2/3)京都学派の思想の方向性を与える上で禅や仏教の影響が大きいわけですが、言語や論理から人間、倫理、社会を含めた全体をとらえる思想は、20世紀後半から現在をも先取しております。近年では分析哲学においてもようやく「倫理」や「価値」が語られております。

2012-09-30 22:31:44
Ken Urai @KenUrai

@devenir21 (3/3)そうした現代の思想と、西田の述べる「行為的自己」、田辺が「絶対媒介」として「論理」を位置づけるといったことは、全く引けをとることなく、むしろ明晰ですらあります。こうした考え方を引き継げなかった故に、今日我々は「国家」を喪失しているように思います。

2012-09-30 22:32:28
蕩尽伝説 @devenir21

@KenUrai 20世紀前半には有機論的・全体論的・生命論的な思索の可能性が開かれていました。一言で言えば、コスモロジーです。それはベルクソンの影響によります。西田も田辺も、そして九鬼周造も、一般的に言って京都学派はベルクソニスムから多くを学んでいる。

2012-09-30 23:59:46
蕩尽伝説 @devenir21

@KenUrai やはり世界戦争が決定的でした。ナチスと結んだハイデガーの存在論および現象学主義が哲学の王位を簒奪するに至り、のみならず戦後は半可通の小説家にすぎないサルトルが実存主義を唱え、20世紀の思想の動向は大きく歪められた。

2012-10-01 00:02:28
蕩尽伝説 @devenir21

@KenUrai 英米系でベルクソンの驥尾に付し、有機体的生命論を展開したのは数学者ホワイトヘッドでしたが、その業績もまた体よく葬られた。たとえばデイヴィッドソンでしたか?英米系の最大の哲学者は誰かと問われ、ホワイトヘッドの名を挙げているのに、自らの著作では完全黙殺(笑)

2012-10-01 00:04:33
蕩尽伝説 @devenir21

@KenUrai ようするに戦後、全体を捉えようとする自然哲学的で宇宙論的な志向はいかがわしいものとしてアカデミズムから追いやられた。しかるに「倫理」や「価値」を語ろうとすれば、宇宙論的な結構は避けて通れない。大きな問いを還元して小さな問題ばかり議論しても、答えなど出る訳がない。

2012-10-01 00:08:18
蕩尽伝説 @devenir21

@KenUrai この夏、田辺元のマラルメ論を子細に検討しましたが、極めて鋭利であると同時に、現代的観点から見れば明らかな限界がある。昔の人として持ち上げるのでなく、我らの同時代人として取り上げ、対決し、乗り超えて行かねばならない。至極真っ当な意味での学問が必要です。

2012-10-01 00:12:12
蕩尽伝説 @devenir21

@KenUrai 国家は哲学により統治されねばならぬというプラトンの主張は恐らく言い過ぎでしょうが、学知とは無縁に国家という精緻な有機体が立ち行かないのは自明です。この肝心な認識からして狂っている。アメリカに何でも委ねればいいと錯覚している。何をか言わんやです。

2012-10-01 00:16:08
Ken Urai @KenUrai

@devenir21 ご指摘の通りと思います。ベルクソンに見られるような道徳と宗教の問題を最終的に社会の問題としてリンクさせる視点こそ、今日の社会科学に(それ以外では言うに及ばずですが)欠落した、最も重要な、社会の捉え方と思います。

2012-10-01 20:59:17
Ken Urai @KenUrai

@devenir21 とりわけ田辺における、ベルクソンの「開いた社会」のみならず、「閉じた社会」の意義を見出す視座、言わば「媒介」としての限界と意義を同時に見出す視座は白眉であります。無論そうした概念が今日社会にそのまま適用できることは無いでしょう。

2012-10-01 20:59:46
Ken Urai @KenUrai

@devenir21 けれども、言うなれば倫理の絶対的媒介として国家を位置づけるということは、人の道を上から強要する国家ではなく、我々が人の道を追求する上で、そこに依拠せねばならない、必要不可欠な媒体としての、あるべき国家の位置づけを、与えていると思います。

2012-10-01 21:00:17
Ken Urai @KenUrai

@devenir21 そしてそういう考え方に立つならば、我々が誇りを持ってその生を全うする、そのような場を、いずこに、どのような形で求めるか、それがすなわち我々にとっての国家という問題であり、国家を我々から乖離させない、考え方であろうかと思います。

2012-10-01 21:00:38
Ken Urai @KenUrai

@devenir21 領土問題で主権どうこう言う前に、自らの生き方を他者に委ねるというのはこの世界に於ける責任の放棄であります。現在福島に押し付けていること、沖縄に押し付けていること、そして我々が当然のごとく依拠しているものに、まず我々は責任と主権を持つべきです。

2012-10-01 21:01:53
蕩尽伝説 @devenir21

@KenUrai 私たちは国家を、それ自体押しつけられたものと見なしている節がある(吉本隆明『共同幻想論』はそこを突いた)。しかるに国家は私たちの自我機制が外に投影されたものと見るべきで、いわばアリがアリ塚を作るように人類は国家あるいは社会を作る。国家とはそれ自体が表現なのです。

2012-10-02 00:49:59
蕩尽伝説 @devenir21

@KenUrai 上から押しつけられたものでなく、自らの内なる意思や意欲が表現されたシステムとして国家を捉え、受け取り直す。契約を結び直す。国家は私たちを鋳型に嵌めるものではなく、私たちの潜在的な可能性を外に押し開き、実現させるための媒体であり、メディアであるべきなのです。

2012-10-02 00:52:00