Twitter が、現在を限りなく微分し続けるのは、「かくあったは、意志の歯ぎしり」への巨大な挑戦だからだ。 by 芦田先生 @Jai_an
捨てるものの見極めが難しいのは、それを頻繁に使っていた頃から時間が経っているということだ。捨てることの経済性で言えば、「いらない」と思った時点で捨てることだ。「あとから必要かも」と思っても、大概はゴミでしかない。
2012-10-03 09:34:46野球選手の三割のための努力は賞賛されるが、「あとから必要かも」の努力は誰も賞賛しない。打率の低さのせいではない。日常化しているからだ。
2012-10-03 09:44:35「傘を忘れた」くらいでは一割打者も平和なものだが、最近では、別れた恋人の検索までやり始める人が出てくる始末。検索する気がなくても、「目にとまる」ほどのソーシャル時代。
2012-10-03 09:58:27一割打率であるがためにこそ、いったい自分は誰が好きなのかさえわからなくなっている。ソーシャルとは、一言で言えば、すれ違いのことである。
2012-10-03 10:00:47Twitter が、現在を限りなく微分し続けるのは、「かくあったは、意志の歯ぎしり」への巨大な挑戦だからだ。Twitter は反データベース的な最後のデータベースなのかもしれない。
2012-10-03 10:16:34(先の続き) もともと「あとから必要かも」というのは、形而上学の気遣いそのものだった。結局、それは、〈現在〉をどう拡張するのか、という課題だったのである。それを〈現前性 Anwesenheit の形而上学という。現在を拡張することによって、過去と将来を手中に収めるということだ。
2012-10-03 10:39:11結局、それは〈意識の形而上学〉と言っても良い。フロイトの無意識も意識の一形態に過ぎないという意味で。フロイトの貢献は意識も時間性だということを予感していたことにある。無意識とは遅れてきた意識なのである。
2012-10-03 10:41:18〈データベース〉とは、その意味で「現前性の形而上学〉の現世である。形而上学の通俗版。そのもっとも優れた通俗性が、Twitter(ソーシャルメディア)だと言ってよいかも知れない。
2012-10-03 10:43:29Twitterの充足感は、その不充足感と等価であり、その等価性は、Twitterの現在にとどまり続けることの根拠になっているからだ。要するに、〈現在〉の充足性なのである。
2012-10-03 10:46:24現在の同期とは、身体の同期である。Google的なデータベースは、単に知識のデータベースに過ぎなかったが、「今何をしている」のTwitterは、私の、あるいは他者の時刻を刻むデータベースであり、時刻を刻むというのは身体の居場所を刻んでいる。
2012-10-03 10:48:56形而上学は「現前性の形而上学」であることによって、プラトン以来、身体の思考(思考とは「死の訓練」なのだというように)と切っても切り離せないものだったが、Twitterこそが「動員の革命」であることによって、はじめて身体をメディア化したと言える。
2012-10-03 10:52:07(ずっーと前からの続き)「あとから必要かも」と言って、たまに役立つものは、それがなくてもどうにかなるものばかり。豊かさとは代替性のことなのだから。ところが豊かになればなるほど、「あとから必要かも」と神経症になっている。あたかも現在自体が無駄であるかのように。
2012-10-03 12:22:12