- ttt_cellule
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@ttt_cellule 「忘れ物」は二重の忘却があり得、思い出すことによって初めて忘れ物は認識できるが、そもそもそうされずに忘れたことすら忘れ去られてしまったものが遍在している可能性があり云々、みたいな話でしょうか
2012-10-26 00:52:22@skezy 謎かけのように言ったので狙いを外してしまった。念頭にあった状況はいくつかあったのですが、一つにはONEの長森はバッファみたいだなと。一過的な保存だったはずの記憶が時間差で単独活動している。一時的保存であったという起点が忘れられた、過去からの忘れ物のようだ、と。
2012-10-26 06:57:10@skezy すば日々第2章末尾の「ここに忘れ物なんてない」が念頭にあったものの一つだったんですが、「忘れたことすら忘れられたもの」ポジが羽咲だったんで、同じようなことを言ってますね。2章の場合、忘れ物が無い=ここでやるべきことが無い と強調されるので、別の世界と忘れ物は対になる
2012-10-26 21:41:21@skezy (決して存在しなかった、存在しない、存在しないであろう)幼馴染について考えることは、エロゲにおける「後から語られる過去」が孕む問題に根深く絡んでいるように思う。忘れ物は、「忘れていたもの」として後から付け加えられる。過去が創造され追加される。語る言葉は現在形になる。
2012-10-26 21:46:06@skezy すば日々のクソつまらない過去編から得るものがあるとすれば、過去は後ろではなく前にあり、因果関係においても原因ではなく結果の方に位置づけられる、といった読みの可能性かも。Airの浜辺少年少女みたいに別の個人として切り離せばそういう操作が可能だったんでしょうけども。
2012-10-26 21:49:42存在しなかった幼馴染…と書くと若干キモいので、書きなおすと、存在しなかった幼少期の記憶。発話形式が召喚する幼少期譚はよくある。しかしそれが自分の思い通りになるものかというとそうではなく、ときにそれは死体を見た記憶のように、埋め込まれた異物として私を襲う。
2012-10-26 22:01:28@ttt_cellule 長森は忘れ物たることによって自律性が生まれているのがいい、と。一方、すば日々羽咲だとそういう段階(=忘れ物を忘れ物として認識している段階)がなく、忘却の忘却という地点から想起するだけで一気に全てを取り戻すので、そこで世界が交わる可能性はなくなるんですよね
2012-10-27 03:26:53@ttt_cellule そもそも、妹や幼なじみといった「関係」あるいは過去の「記憶」なんかは、通常の忘れ"物"と違って、忘れていたということ思い出して「忘れていたもの」を認識すると、一気に忘れ物じゃないところまで進んでしまう=全て現在に回収されてしまう、という構造がありますね。
2012-10-27 03:33:03@ttt_cellule Kanonとかの遡及的過去形成/生成あたりの話を思い出しますね。エロゲに限らず言葉をメディアに使う場合、その世界(・人物)の同一性基準はその世界内部から位置づけ直されてしまうために、理由説明が(世界内部である)過去に向かう、というのもある気がします。
2012-10-27 03:45:26@skezy ああ、ということは、忘れられながら・忘れたことを思い出されないながら、の不思議な持続的関係性こそがキモなのかな
2012-10-27 11:33:32@skezy なんかskezyさんの「幼なじみがそこにいる(と良い)」は、関係・行為は現在時のものでありながら、関係の条件は過去にあり、しかしながらその過去は現在に結び付けられることもない、という不思議なものに思う。
2012-10-27 12:15:33@skezy 幼馴染は通常、childhood friendかchildhood sweetheartで、後者は明確に「幼なじみの恋人」だけど、skezyさんの言いたいのはむしろchildhood somebodyを指しているように思う。時期と無関係にあるchildhood。
2012-10-27 12:17:26@ttt_cellule 僕は「空から幼なじみ降ってこないかなー」と言ったときに、いかにして空から降ってきた幼なじみが幼なじみたりえるかというあたりについて考えたりするので、そういうことになるんだろうなあ、とは思います。
2012-10-30 00:21:57セルジュ・ルクレールの『子どもが殺される』邦訳って、びっくりするぐらいに古書市場にも無いなー http://t.co/cgRVV5Vu
2012-10-29 05:34:50ブランショはフロイトとルクレールを蝶番に幼年期に関して論じてたようだし、リオタールとコフマンもフロイトか。思弁的には「フロイトに始まる」と言っていいんだろうな。社会科学的には、おそらくフロイトの議論を一部に含むような変化が起きていて…というふうなものがありそうだが
2012-10-29 05:49:54"われわれの幼年(enfance)がわれわれを魅惑するということ、それが起こるのは、幼年が魅惑(facsination)の時期であり、それ自体が魅惑されているからだ。そしてこの黄金時代は、啓示されないがゆえに輝く光のなかに浸されている。
2012-10-29 12:47:52なぜ啓示されないかというと、それが啓示とは無縁で、啓示すべきものを何ももたず、純然たる反映であるからで、この光線はいまだひとつのイマージュの光輝でしかないのだ。母的形象(figure maternelle)の力能はその眩い輝きを、魅惑の力能そのものから借りているのであって、
2012-10-29 12:49:21〈母〉がこの魅惑する牽引力を発揮するのは、魅惑の眼差しのもとで子ども(enfant)が全面的に生きるそのときに現出して、ついに〈母〉が虜にするその力のすべてを凝集するからだ。子どもが魅惑されるから、母は魅惑するものなのであり、
2012-10-29 12:52:30だからこそまた、幼児期の数々の印象はすべて、魅惑に依拠する何か固定的なものを有しているのだ。―ブランショ『文学空間』原著27頁
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