西洋天文ことはじめおよび東大前史
- murapyon71
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@Exphysicist 日本は直接西洋の学問を邦訳することにより太陰太陽暦の中で最高傑作である天保暦法を完成し、中国天文学の水準を超えたとあります。 (つづく
2012-11-03 22:34:42@Exphysicist これをみるとおっしゃるように『ラランデ暦書』が日本に与えた衝撃というのはもの凄く、西洋学問への扉を一気に押開いたのかもしれませんね。日本が学問的に中国を抜いたきっかけというのも非常に興味深いです^^
2012-11-03 22:35:01@murapyon71 『ラランデ暦書』の目次見ると間違いなく本格的の惑星天文学。原初のフランス語初版は1771年発行。それが蘭訳⇒邦訳。 http://t.co/jNNgTydG
2012-11-03 22:43:57フランス革命期に活躍した天文学者ジョセフ=ジェローム・ド・ラランドは虫が好物で、クモはヘーゼルナッツの味がしてイモムシは桃のような味がすると語っていた。彼の友人の妻はラランドのために庭でイモムシを集め、イモムシのラグ―を作っておき、ラランドの来訪を待っていた。ウィキペディアより
2012-11-04 16:39:04渋川春海について
⊢姓・名・字・通称・号(経歴が複雑…)
渋川春海の事績から姓名のことを追ってみる。ちょっと不確かな所もあるのですが、ざっとこんな感じでしょう。名は春海である。名というのは学業を修めた時に師匠か父親からもらうもの。幼字は六蔵。幼字というのは赤ちゃんの頃から学業を修めて成人するまでの通称。家康の竹千代みたいな感じ。
2012-12-28 16:58:09字は順正。ただし読みが(のぶまさ)とかなってるので、ひょっとしたらこちらが名かもしれないけどよくわからない。父の跡を継いで碁方につくと、父の算哲を継いで安井算哲と称した。算哲は碁の世界での通り名みたいなもんじゃないかな?安井家は兄弟が継いだので、のちに保井姓にしたみたい。
2012-12-28 17:03:58新虜を号すとある。元禄十五年よりは安井の本姓である渋川姓に改めている。安井家は姓は源で氏は渋川とのこと。先祖が河州渋川郡を拝領したので、これにちなんだ氏とのこと。のちに播州安井郷も拝領したので安井氏もつかい。渋川と安井両氏を家称といしたよう。
2012-12-28 17:12:56仮名は助左衛門。仮名で左衛門とか右衛門とかいったのは領土持ちじゃない武家や商人の間で流行った上級武士を気取ったものらしい、渋川助左衛門春海といった感じになる。字を用いれば渋川順正とかいうふうになるんじゃないかな。職場では助左衛門とか言われてたそうだけど。
2012-12-28 17:19:02また、小説の天地明察の参考文献をみると、渋川春海の一次資料には谷秦山『壬癸録』『新盧面命』、渋川五代敬谷『春海先生実記』があるのですが、どれも載って無く孫引きでストーリーを構成したのかな?とちょっと不満が残る内容でした。
2012-12-28 17:48:47∟風貌
渋川春海の風貌は肖像画が無いのでよくわからんらしいけど、春海の弟子で土佐の谷秦山というのが、江戸に出てはじめて春海にあった時の印象やらを『新盧面命』にしるしている。「助左衛門御事、六十有余やせたる老人にて、なるほど質なる様体、文字一つなき人の様に相見候」とある。
2012-12-28 17:33:06東大前史ー幕末
@Exphysicist 一連の事業は天文方の一部局蛮書和解御用(後の開成学校)というところで行われていたと思うので、東大の沿革の最初を彩る最初の大事業ですね^^
2012-11-03 23:05:39@murapyon71 東大の沿革を見ると【洋学部門】天文方⇒蛮書和解御用⇒蕃書調所⇒開成所⇒開成学校⇒大学南校⇒東京開成学校⇒(1877年東京大学設置)法学部・理学部・文学部。となって、理学部が明治10年にできてるのはさすがに早い。誰が何をどうやって教えたのでしょうか。
2012-11-03 23:25:00@Exphysicist 景保が頻繁に来航しだした外国人との交渉から、洋書の輸入・邦訳の重要性を建議して文化八年、天文方に蛮書和解御用という部署を設置とありますので、最初は洋書の邦訳部門といった位置づけですかね。 (つづく
2012-11-03 23:47:15@Exphysicist 嘉永六年のアメリカ艦隊来航の衝撃を受けて洋楽の知識を飛躍的に上げる為に蕃書調所とし独立官庁へ、安政四年一月十八日開所式。文久二年五月十八日洋書調所と改称、文久三年八月二十九日開成所と改め、とあります。 (つづく
2012-11-03 23:47:40※蠻書調所の設立過程
⊢設立主意ーもとからの蘭書翻訳に加え、軍事上からの洋書の研究・翻訳・教授に関する人材を幕臣の中で養成。
⊢頭取ー安政二年八月三十日、古賀謹一郎が任じられる。
⊢名称ー計画段階では洋学所、安政三年二月十一日、蠻書調所に正式に決定。
⊢建設場所ー安政三年二月十七日、元竹本図書頭屋敷が小普請奉行より納められる。
⊢教員ー安政三年正月中、教授に箕作阮甫・杉田成卿、教授手伝いに高畑五郎・川本幸民・手塚律藏・松本弘安・東条英庵・石井宗謙(三月に原田敬策に交代)・田島順輔に任命。
⊢事務ー安政三年三月、勤番組頭に山本庄右衛門・水野正之助、勤番に真下専之丞・榊原錬太郎・雨宮六蔵・斎藤源蔵に任命。
⊢入学資格ー「経書弁書又は講釈等出来候もの」、いわゆる漢学の素養が必須(若者がキリスト教信仰に堕ちることを危惧とある)。
⊢開所式ー安政四年正月十八日。
⊢設立主意の蘭学一科・兵学一辺倒が改められ、蘭学に加え英語・仏語・独語学科の新設、兵学に加え化学・数学・機械・印刷等の研究と教育を取り入れ、広く西欧の科学技術を摂取する方針に切り替えとある。
⊢文久二年五月、一ツ橋護持院原に移転。
⊢文久二年五月十八日、実体に合わせ洋書調所と改称。
∟文久三年八月二十九日、開成所と改称。
東大前史ー明治
@Exphysicist 幕末においては西洋学問の研究所みたいな位置づけでしょうか?明治になって開成学校という立場に変わり、お雇い外国人による講義が始まった?ここら辺は、今僕が持ってる本ではよくわかりませんね^^;
2012-11-03 23:47:46@murapyon71 それと【西洋医学】種痘所⇒(幕府移管)西洋医学所⇒・・・⇒東京医学校⇒(1877年東京大学設置)医学部。というのは解るが、【漢学】昌平坂学問所(昌平黌)⇒昌平学校⇒大学校⇒大学本校⇒(1870年閉鎖、翌年廃止)。となっていて、「中国観の転換」が歴然。
2012-11-03 23:37:00@Exphysicist 明治十年の東京開成学校と東京医学校との合併も中身をみると面白いですね。従来の開成学校は一ツ橋で英語で法学部、理学部、文学部の三学部。医学校は本郷でドイツ語で医学部。場所も別だし綜理も別なので、 (つづく
2012-11-04 00:04:21@Exphysicist 合併とは名ばかりだったようです。医学部のベルツは合併で英語を強要されるんじゃないかと思ってハラハラしたが、何も変化が無かったのでよかったよかったと胸を撫で下ろしたようなことがヘルツの日記にあるそうです^^
2012-11-04 00:04:28