関孝和の「改暦」伝説と渋川春海

江戸時代の科学史がご専門の佐藤賢一先生 @ke_1sato による連ツイをまとめました。 9月4日から大阪市立科学館で「渋川春海と江戸時代の天文学」展を開催。 プレスリリース(pdf):http://www.sci-museum.jp/server_sci/promot/pdf/120727_1.pdf
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佐藤賢一の中の人 @ke_1sato

昨日フォロワー数が1685を超えました。西暦1685年、国内初の暦法(暦計算のシステム)に基づく「貞享暦」が施行されました。策定したのは幕府の碁打であった渋川春海。当時このような国家事業を一人で行う事への批判もありましたが、渋川はその人脈を活かして断行。この暦は約70年ほど採用。

2012-08-21 18:02:54
佐藤賢一の中の人 @ke_1sato

渋川春海と同時代人の関孝和が、数学史・天文学史界隈ではしばしば話題になりますが、少なくともこの二人が実際に会ったとか見知っていたとか、そんな証拠は今のところ1つもないですね。1970年代に出た『関孝和全集』が不用意な説を出したために、話に尾ひれが付いてしまったというのが実態です→

2012-08-21 18:10:10
佐藤賢一の中の人 @ke_1sato

→関孝和の名前が付いた著作写本の年代(年紀)は大体1985年が最後なんです。ここから『関孝和全集』の編者は想像力を駆使して「関孝和は改暦に参画することを望んで研究していたが、貞享暦ができてしまったので挫折し、その研究を断念した」というストーリーを作ってしまったわけです orz →

2012-08-21 18:17:03
佐藤賢一の中の人 @ke_1sato

→(関孝和)そもそも関孝和の当時の知名度は、ほとんど無名。甲府徳川家の勘定方が本職であったから仕方ないことで。かたや、幕閣や京都の貴顕たちと、碁打としてコミュニケーションできた渋川春海。政策に関与できる度合の差は歴然としていた。残念ながら、関孝和は改暦とは無関係。→

2012-08-21 18:47:59
佐藤賢一の中の人 @ke_1sato

→関孝和は無名だったというと、現在の知名度からすると驚かれるかもしれないが。まあ、現代的な比喩を使えば、「大名家の勘定方」=「一部上場企業の経理部社員」という具合なので、今の我々は関係者でもない限り「トヨタの財務部長って何て人?」と聞かれて即答できないでしょう。関孝和も同じ感じ→

2012-08-21 18:59:44
佐藤賢一の中の人 @ke_1sato

→関孝和の著作執筆が改暦の年(1685年)に更新を止めたという事実は私は単なる偶然だと思う。理由は幾らでも思い付くので、改暦が原因であったという説は成り立たないだろうなあ、と。そもそもこの年代は、著作の成立年ではなく、関の弟子が本を書き写した年代の可能性が高い。→

2012-08-21 19:09:55
佐藤賢一の中の人 @ke_1sato

→改暦を主導した渋川だが、天文学史の人たちのコメントを受売すると、彼はどうやら天文学者としては望遠鏡を用いず肉眼観測していたらしい。望遠鏡自体は江戸時代初期の日本に紹介されている。何と言っても井原西鶴の作品の中で、主人公が女性の行水を覗き見するために望遠鏡を使う挿絵まである。。。

2012-08-21 19:31:10
佐藤賢一の中の人 @ke_1sato

→望遠鏡による観測実例は徳川吉宗治世の享保年間ぐらいから出てくる印象があります。渋川の頃(貞享~元禄)あたりは一般的ではなかったのかな。それから、小説の『天地明察』では、渋川が全国を歩いた描写がありますが、あれも全くのフィクションです。伊能忠敬の歩いたルートを忠実にパクってますw

2012-08-21 19:47:47
佐藤賢一の中の人 @ke_1sato

はい、あれらは京都土御門家に入門した仙台藩士がいたりして、残ったんですよRT @miattof 「天地明察」 歴史を知ってから見ようキャンペーンでしょう・・^^;)仙台市天文台の天球儀など見ました。仙台藩にあれらが残ったのは偶然なのか?それともだれか重要人物がいたのでしょうか?

2012-08-21 19:52:57
佐藤賢一の中の人 @ke_1sato

→渋川の話題と言えばやはりこれ。渋川は元々、安井姓(又は保井)。慶長年間の先祖、安井成安は隠遁して「道頓」を名乗り、大阪南堀に居住。そうです、あの道頓堀の名称の由来は渋川春海の先祖にあったのです。いやこれは普通に歴史書に書いてあることです、マジでw 因みに道頓は大坂夏の陣で戦死。

2012-08-21 20:20:02
佐藤賢一の中の人 @ke_1sato

→(渋川ネタ最後)貞享の改暦の功により、渋川春海は幕府の初代「天文方」となる。天文台の台長、主任天文官というような役職だが、渋川の場合は名前だけの役職と見た方がよい。当時幕府には天文台らしい設備は何も無かったわけで。幕府の天文台組織が実体を伴うのは徳川吉宗の享保期以後のこと。了

2012-08-21 20:42:30

しかのつかさ @sikano_tu

@ke_1sato なるほど。そういう感じですか。

2012-08-21 19:28:34
佐藤賢一の中の人 @ke_1sato

@sikano_tu 本職の方を忘れられて、おそらく趣味でやっていたことが後々有名になってしまった、ということだろうと思っています。

2012-08-21 19:35:02
しかのつかさ @sikano_tu

@ke_1sato なるほど。人となりとかは全然知らなかったので、何となく学者さんで、弟子とかもいたのかなって思ってました。

2012-08-21 19:53:26
佐藤賢一の中の人 @ke_1sato

@sikano_tu はい。弟子もいました。有名なところでは、徳川吉宗に重用された建部賢弘という人物です。彼は数学・天文学に秀でていて、吉宗のその方面でのブレイン的存在でした。

2012-08-21 20:00:23

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