言葉は単なる文字の連なりではない。ポーとハルキ。

蕩尽伝説さんが、エドガー・アラン・ポーの選集5冊を読み終えての感想をまとめました。文字による表象の喚起力がいかに大事か。村上春樹の文学にも敷衍して述べています。
0
蕩尽伝説 @devenir21

なんやかんやで時間を要したが、創元社のエドガー・アラン・ポー選集5冊を読み上げた。本来なら谷崎精二訳の全集に取り組みたかったが、容易に手に入らない。ちなみに第1巻の奥付を見ると1974年初版で、私が持っているのは翌75年第7版。買ったのは中学あたりか?

2012-11-11 04:33:38
蕩尽伝説 @devenir21

すっかり紙は黄ばんでいるものの、この時代の製本は実にしっかりしている。背を折って読んでも頁が剥がれるようなこともない。当時、全巻読み通せなかったのは漢字や表現が難しかったせいばかりではない。なにより思想的に難解だった。実際のところ、ポーはまるで読まれていない。

2012-11-11 04:34:44
蕩尽伝説 @devenir21

自分のことを言えば、20代になって小説趣味が蒸発してしまった。子供の頃は物語に引きつけられ小説を読み漁ったが、ふと気づけば大抵は映画で済む。ポーのように重厚な描写をする作家はうざい。関心が理論的・哲学的著作に移った。そうなるともう小説が全然読めなくなる。

2012-11-11 04:35:30
蕩尽伝説 @devenir21

誤解されているが、『アルンハイムの地所』などに見られるように、ポーは徹底的に描写の人である。物語は二の次だ。描写に作家の本領がある。このことに気づくのに時間を要した。風景なんて眼で見ればいいじゃん。映画も絵画も写真もあるじゃん、てなわけ。

2012-11-11 04:37:06
蕩尽伝説 @devenir21

ところが半世紀近くも表象に淫していると、世の見るべきものは殆ど見た。そりゃ全部は無理にしても、かつて歴史の教科書や参考書に載っていた名作の類いは日本に居ながらにして殆ど全て現物を見た。映画史上の名作も殆ど見た。となると、眼前に展開する表象にさしたる興味が持てなくなる。

2012-11-11 04:38:02
蕩尽伝説 @devenir21

まあ年齢のせいもあるんだろうが、表象に欲情することが無くなる。むしろポーのように活字で幻想的かつ超絶的な描写をする作家の面白味が解ってくる。読み手により、また読み方によりイメージが、あるいは脳内映像が大きく変わる。それが文学の妙味だ。詩はもっと曖昧だ。

2012-11-11 04:38:58
蕩尽伝説 @devenir21

これまで実際に見た景色や映像・画像が文字に刺激されて想起される。さらにまた、この記憶表象により文字の喚起力がいっそう強まる。そんな相乗効果が生じる。逆に言えば、自らの内に豊富な表象体験がなければ、微に入り細を穿つポーの描写など面白くもおかしくもないだろう。

2012-11-11 04:40:21
蕩尽伝説 @devenir21

言葉はたんなる文字の連なりではない。文字により惹起される印象でも音響でもない。たしかにそれは視覚や聴覚を刺激するが、それらの表面的な感覚反応を介して、心身のもっと深奥に働きかける。深さを穿ち、広さを齎し、人間を内から変えてゆく。そこに教養の奥深いダイナミズムがある。

2012-11-11 04:40:58
蕩尽伝説 @devenir21

通俗小説は描写を省略し、ありきたりのストーリーの焼き直しばかりしている。現代的な風俗や世相にかんする情報量だけはやたら多い。これにたいして、もっぱら描写で読ませる作家となると、やはり村上春樹の名を挙げざるを得ない。言葉の力のみで立つ。

2012-11-11 04:42:48
蕩尽伝説 @devenir21

文字と映像&画像、ひいては音楽との共感覚的な世界を隠喩を多用して描くので、こちらにも同様の回路がないとハルキの文学世界を十全に享受できない。一昔前の文学愛好家のたぐいがその真価に気づかず、口を揃えてこの作家を貶めた(いまだに!)のは至極当然のことだ。文学しか知らない。

2012-11-11 04:44:39
蕩尽伝説 @devenir21

ハルキは文字を通して、その彼方に広がる世界を描いているのだが、昔の人はたんに上っ面の活字を読んでいるだけなのだ。感覚世界は物語に還元できない豊かさを持つ。日本語はこれを表現するのに巧みだ。ハルキはその水源から多くを汲んでいる。

2012-11-11 04:47:04