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「いのち」と「存在」という言葉の位置づけ、「ありのままの生命の肯定」などについてのやり取り

@myriel_june氏と@yumepas氏とのやり取りなどでの、標記の主題を中心に、とりあえずまとめました。 論叢クィア第5号掲載の「特集 3.11以後のクィア」の ●高橋準@myriel_june「救われるべきものは”いのち”なのか」 での、『「絆」の強調がジェンダー・セクシュアリティ秩序の再構築であるなら、それはおそらくジェンダー平等やセクシュアル・マイノリティが求める方向とは異なってしまう。「いのち」と「存在」という言葉の位置づけが非常に考えさせられる。』と、同誌掲載の、 ●堤愛子「反原発運動に潜む優生思想」 続きを読む
政治 優生思想 反原発運動 脱原発 原発事故 障害者差別 障害者
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VOICE of LGBTs @VOICEofLGBT
学生の頃。マイノリティの人も居て良いと思います、と言った子に、先生が、君に居て良いなんて言われなくても、居るんだよ。とバッサリ切り返したとき、居るということに誰の承認も要らないんだって、居て良いなんて誰にも言わせはしないんだって、わかった。
おきく @okiku3rd
中途半端な自画自賛になってしまいますが、やっぱりこのシンポジウムは良かったと思った。論叢クィア第5号掲載の「特集 3.11以後のクィア」。参加されなかった人にも是非読んでほしい。
おきく @okiku3rd
堤愛子「反原発運動に潜む優生思想」は、差別と差別が折り重なる言説の渦中で、どのように意識を保てるか、自分の中に新たなよりどころを呼び起こしてくれる。
おきく @okiku3rd
高橋準「救われるべきものは”いのち”なのか」。「絆」の強調がジェンダー・セクシュアリティ秩序の再構築であるなら、それはおそらくジェンダー平等やセクシュアル・マイノリティが求める方向とは異なってしまう。「いのち」と「存在」という言葉の位置づけが非常に考えさせられる。
高橋 準 @myriel_june
さきほどの菊地夏野さんのツイートのRT、昨年11月に行われたクィア学会シンポジウムの登壇者4名が、学会誌『論叢クィア』5号に寄稿した文章へのコメントです。菊地さんは、『インパクション』183号(2012年1月)への寄稿でも、このシンポジウムについて触れてくださっています。
高橋 準 @myriel_june
わたしの文章へのコメントで出てきた「いのち/存在」というのは、実はまだ自分自身考えがうまくつきつめられてないところ。震災の時に、「いのちが最優先」とされながら、障がい者や高齢者、乳児やその親などがきわめて過酷な状況に置かれたという報告もある。ではなにが、優先されていたのかと。
高橋 準 @myriel_june
その問いの中でぶつかった「共通のニーズ/独自のニーズ」ということば。「いのち」が「共通のニーズ」で、セクシュアル・マイノリティの要求などは「独自」のもの、「独自」なものは後回しとする発想ですが、実はこれこそが問題なのではないかと思いました。
高橋 準 @myriel_june
というのは、介護が必要な高齢者や乳児は、成人とは異なる「独自」のニーズを持っていますが、それは後回しなのか。でもそれでは、「いのち」が保てない。結局は「さまざまなニーズ」があって、しかしそれをどこかで線引きして、「独自」として切り捨ててしまっている。では誰が線引きをしているのか。
高橋 準 @myriel_june
それは決定権を握っているマジョリティである、ヘテロセクシュアルで・シスジェンダーで・男性の・健常者の・日本語を第一言語とする・成人の……というごく一握りの人たちなのではないか。彼らによって、「線引き」という政治的行為が行われている。
高橋 準 @myriel_june
では、なにを「守るべきもの」とするのか、というところで、あまりこなれていないまま「存在」ということばを使ってしまっています。「尊厳」でもいいのかも知れません。「生活」だとちょっと違うかな。なんとなくまだ、しっくりくることばが見つからない感じです。
高橋 準 @myriel_june
「絆」ということばも同じで、なにを「絆」とするのかは、実は社会の多数派から決められていて、しばしばそれは守旧的な地域社会や家族の紐帯のように思えるのだけど、見落とされてしまっているものがあるのではないかとも思います。
高橋 準 @myriel_june
『論叢クィア』5号をお読みになりたい方は、これはぜひ特集記事全部読んでいただきたいので、洛北出版のこのページからどうぞ。(これはステマちゃう) http://t.co/KNGDZHWc
山田 @HanabarYukie
@myriel_june それは、人災による介護災害を招いていることにもなりますね。
高橋 準 @myriel_june
@hanabaryukie 今回の震災でも、「被害」の相当部分は「人災」の側面がありますね。今回に限りませんが。
山田 @HanabarYukie
@myriel_june お返事、ありがとうございます。 何が起きてもおかしくはない今、人権の問題の整備も含めた「準備」をしておくことが、人災や自然災害から「被害」を出さないことにつながりますね。
ノザーリン(反犠牲) @chosuke50
この高橋準さんの論考は、私の研究にもろかぶるから、ぜひ読んでおきたい。
ノザーリン(反犠牲) @chosuke50
胎児を障害児にさせられるということと、障害をもって産まれてきてよいということとを論理的に両立させない限り、障害当事者と患者とは反目しあったままである。加えて、障害の早期発見をどう考えるか、障害を否定せず、障害者にさせられることを追及できる論理が必要となる。
ノザーリン(反犠牲) @chosuke50
高橋準さんの「救われるべきものは“いのち”なのか」、全部を読んでいませんがTWだけで少し感想を。高橋さんの危惧はすごくわかる。そのうえでなのですが、ひとつに、「共通のニーズ/独自のニーズ」は論理的には対立しない、位相が違うと思います。→ https://t.co/6MZkaRjy
ノザーリン(反犠牲) @chosuke50
→「共通のニーズ」としての「いのち」は、すべての生にとって基底的であります。それなしには「独自のニーズ」すら満たされえない。だからといって、それは「独自のニーズ」を無視していいということではまったくない。「共通のニーズ」は、「独自のニーズ」を可能にする基底的なものだというだけ。→
ノザーリン(反犠牲) @chosuke50
→拙著では、「いのちの価値」と「自由や平等の価値」とが比較不能であると論じました。すなわち、いのちがないかぎり、自由や平等などの価値も意味がない。だからといって後者が無意味だということではない。比較不能というのは、それぞれの価値の位相が違うということです。それと同じなのでは。→
ノザーリン(反犠牲) @chosuke50
→それと、「共通のニーズ/独自のニーズ」というように簡単に切り分けられるのか。「いのち」というとき、単に生物学的生存のみを指すとすれば、概念的にはそういうものは構想可能でも、実体として「単なる生」だけをもつ生物は存在せず、かならずそこからはみ出す。ゾーエー/ビオスといった分け方→
ノザーリン(反犠牲) @chosuke50
→では収まらないように思います。その部分を高橋さんは「存在」という語で言い表されたいのだと感じました。ちなみに、私が「生を肯定する」という場合、そういうのをまとめて丸ごと肯定するということを意図しています。(終)
ノザーリン(反犠牲) @chosuke50
高橋さんの言葉に合わせれば、私の言いたいのは、「さまざまなニーズ」を満たしつつ、それぞれに個別の生を生きるためにこそ「共通のニーズ」である「いのちを守ること」が必要であるということです。 https://t.co/AhF4BMZh
高橋 準 @myriel_june
@yumepas ご批判ありがとうございます。せっかくですので、わたしのところだけでもコピーを送りたいと思うのですが、メールアドレスは、テキストだけのサイトの上の方にある、.toドメインのものでよろしいでしょうか。
ノザーリン(反犠牲) @chosuke50
@myriel_june 目に止めていただき、ありがとうございます。批判といいますか、私ならこう考えると言いますか、私もこの部分は悩ましいところだと思っています。お送りいただけるとのことで、そのアドレスで届きます。よろしくお願いいたします。
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コメント

tu-ta @duruta 2012年12月7日
「生きていることの肯定」 http://tu-ta.at.webry.info/200811/article_16.html とかいう文章もあります。よかったら、読んでみてください。
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