「いのち」と「存在」という言葉の位置づけ、「ありのままの生命の肯定」などについてのやり取り
- hijijikiki
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ちょっくら@yumepasさんのご批判に答えておきます。「共通のニーズ/独自のニーズ」というのは、わたしがしている区分ではなく、マジョリティ側から「その要求はぜいたくだ」と切り捨てられる時になされるものです。(女性に対して、障がい者に対して、LGBTに対して、etc.)
2012-12-06 11:53:42ただしその「切り捨て」によって、実は生存がおびやかされたり、QOLが著しく下がったり、尊厳が奪われる、などのことが起こっている。本来はどこで線を引くのかは、@yumepasさんがおっしゃるとおり簡単ではないわけですが、なぜかマジョリティの側からそれがなされてしまうことがある。
2012-12-06 11:56:01で、@yumepasさんがおっしゃる「生を肯定する」ということ。これはシンポで堤愛子さんが「ありのままの生命の肯定」というかたちでおっしゃっていたことと重なると思います。この点、シンポ終了後に清水晶子さんから、「どう位置づけるのか」というご指摘を受けていました。
2012-12-06 11:59:26今回もその部分を論じる準備はしていたのですが、書いているうちになんだかまとまらなくなってきたので、「……今後の課題」としてしまいました(をい
2012-12-06 12:03:20@myriel_june 私も、堤さんの論点に関しては、『部落解放』2012年1月号で、「「障害者が生まれるから」原発はいけないのか」という小論を書かせていただきました。そこから、またいろいろ考えるところがあります。堤さんが過去に書かれたものを「引き受ける」という形ですが…。
2012-12-06 12:07:15簡単にいうと、堤さんの「ありのままの生命」というのは、実は「ありのまま」=無垢ということではなくて、「生命」ということばを使うことで、「生物学的なもの」として「口を出せない」ものにしていくという、言説上の戦略ではなかろうかと思っています。
2012-12-06 12:33:09うん、「口を出せないものにする」というのはちょっと言いすぎかな、と反省。ただ、「これは生物学上の問題」として「セックス」の領域を囲い込もうとする言説と、ある意味同型性を持っているようには感じます。 RT @sakinotk: @myriel_june のりたくない戦略。
2012-12-06 14:28:55@myriel_june かれこれ30年考えてきて、生物学的アレコレも、「見ていないものを整理できない、整理できないものは、すぱっとなめらか&シームレスには語れない」に尽きるのかなぁ、と。なので、「よいしょっと」的な戦略とは親和性がなくって。
2012-12-06 14:33:39高橋準さんの「救われるべきものは”いのち”なのか」、私なりに翻訳すれば、震災や原発事故など「有事」なときにこそマイノリティのいのち/存在がないがしろにされる、「有事」こそ「平時」のいのちの価値序列が強固になってしまう。これは私も阪神淡路のあと、よく言っていたことだと思いだした。
2012-12-06 21:40:43障害を否定しないのになぜ公害反対なのか、放射能被害反対なのか、ちょっとネチネチした論理展開の論文書くかもしれません。これをしないと、落とし前がつかないような気もするので。
2012-12-07 01:11:22障害は本人にとってはその是非はつかない、損か得かわからない(障害があるのは損だと言ってるのは社会の都合)のに対し、公害や放射能被害は、被害を受けた本人にとっては損である、というのをひとつの理由にできるのではないかと思っています。
2012-12-07 01:15:25主な理由は他にあるように思う RT @yumepas: 障害は本人にとってはその是非はつかない、損か得かわからない(障害があるのは損だと言ってるのは社会の都合)のに対し、公害や放射能被害は、被害を受けた本人にとっては損である、というのをひとつの理由にできるのではないかと…
2012-12-07 01:23:38@duruta 博士論文の頃から、青い芝が森永ヒ素ミルク中毒患者に対してはとても冷淡だった(青い芝に近い健常者からの聞き伝えです)こととかが気がかりでした。どちらの歴史を調べても、お互いに関する記述がなかったので、書くのを断念した部分ではありました。
2012-12-07 01:24:17@duruta @yumepas 横から失礼。青い芝の会の行動綱領を起草した横田弘さんは「ハンセン病の人も水俣病の人も、環境が良ければ『健全者』なわけでしょ」と治すべき、戻るべき元の体のある患者運動と青い芝の運動の違いを語ってます。(『季刊福祉労働』136号の荒井裕樹論文)
2012-12-07 17:13:36■類似の・関連するまとめ、記事など:
★『論叢 クィア』第5号:特集 3.11以後のクィア(2012年)http://rakuhoku.blog87.fc2.com/blog-entry-980.html
★「原発事故と障害者」http://togetter.com/li/117250
★『「どうして障害児を生むことをそんなに恐れるんだろう」から始まったやり取り』http://togetter.com/li/403603
★堤愛子「ミュータントの危惧」http://www.geocities.jp/aichan822/myuutanntonokigu.htm
★大橋由香子『[WAN的脱原発](10)難しいことはわからないけど、母は強い?「産むのが怖い」この時代に』http://wan.or.jp/reading/?p=3964&page=2
★米津知子「脱原発と、障害の『恐怖の象徴』からの解放――これは、同時にできるはず」http://www.soshiren.org/oshirase/data/yonezu.pdf
難しいことはわからないけど、母は強い?「産むのが怖い」この時代に 大橋由香子:『障害者はかわいそう』『障害児なんて産みたくない』や、『障害』を恐怖の象徴にする意識も、『障害』をもつ人々の生命と人生をおびやかすものとして『反対!!』」堤愛子 http://t.co/3rF3f8Aj
2011-10-05 21:11:20「恐怖の象徴」と「生命を脅かすもの」との間の線引きですか?しかしこれは難しい問題だと思います(続く) @nihikime どこに線を引くかの違いだけなのに、そのことに気づけば理解できると思いますが、悲しいことです。
2011-10-05 23:54:28@nihikime 続き)病気と障害の間にきれいに線引きができるでしょうか?病気は生命を脅かすが、障害(になる要因)は生命を脅かさない、と言えるでしょうか?堤さんの主張には賛成ですが、「障害児を生みたくない」という感情は、ある意味で“自然”であるような。
2011-10-05 23:55:15@hijijikiki 私が言いたいのは、それは主観的なものでしかなく、障害に恐怖を感じている人が他者から見れば、恐怖の対象になっているかもしれないことに気付いていない、つまり、「障害者」を否定することが自らを否定していることに気付いていないということ。
2011-10-06 06:08:41