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赤穂事件について

赤穂事件についてまとめです。
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@miohiroko

1338[赤穂事件]討ち入り直後の世間の受け止め方について。今のように事件の詳細が迅速に伝わる手段のない時代だったが(もっとも、今だって必ずしも全貌が正確に伝えられているとは言い難いが)、それでもわりと細かな事がすぐに広まったようだ。誰がどういう戦いをしたか、といった事は無理だが

2012-12-14 18:44:55
@miohiroko

1339[赤穂事件]問題は、浪士たちの討ち入りの行為そのものに対しての庶民の受け止め方。武士階級では手続きを踏まない不法行為という厳しい捉え方と、忠義である立派だと称賛する味方に分かれた。が、どちらも明日は我が身という当事者意識で行為を分析しただけに重いものがある。庶民はどうか。

2012-12-14 18:49:25
@miohiroko

1340[赤穂事件]忠臣蔵では、討ち入りを果した浪士たちが泉岳寺目指して行進し、江戸市民が拍手喝采を送る場面が定番だが、いくらなんでも詳細な事情を行列が来る時点で理解し、称賛するのは無理。テレビで討ち入りの生中継でも見ていたなら可能だが。しかし一党が歩く姿は興味本位で眺めたようだ

2012-12-14 18:53:46
@miohiroko

1341[赤穂事件]元禄当時はまだ庶民の教育は後期ほど盛んではなかったが、町人などは商売の必要から読み書きを教わった。その際、過去の武将らの書状が教材として使われたが、その教え方は、強い者、勝者に対する賛美だった。忠義ということはほとんど関係づけがなされなかった。

2012-12-14 19:05:07
@miohiroko

1342[赤穂事件]忠義を主題にした場合は、たとえその主人公が負けたとしても、忠義者だとして称賛される。しかし、元禄期までは戦国以来の気風が残っており、とにかく勇壮で強くて勝った者が偉いとされた。天下をとった家康が絶賛され、豊臣をけなしたのも勝ち負けという結果によるもの。

2012-12-14 19:07:58
@miohiroko

1343[赤穂事件]江戸庶民が浪士たちを称賛し出したのも、最初は見事討ち果したという行為そのものであった。儒者の室鳩巣(むろきゅうそう)などはすぐに「義士」として忠義を称えたが、庶民はそんなことは関係なかった。討ち果したことがすごいとされた。

2012-12-14 19:11:08
@miohiroko

1344[赤穂事件]やがて時が移り、8代吉宗の享保年間になると教育の奨励で庶民もこぞって勉強をするようになったが、この頃になると勇壮で力自慢と同時に、その行為が道徳的な行為であるといったとらえ方が次第にされるようになった。家来が身を捨てて主君のために尽くすという生き様の賛美。

2012-12-14 19:14:52
@miohiroko

1344[赤穂事件]これに連動するように赤穂浪士たちの行動も忠義であり、武士道の発露であるとされるようになった。こうなると、四十七士はなんとしても偉い、とする必要から、耐え忍び、目的の為に心を一つにして向かってゆく姿がさまざまな虚構話で補完され、複雑で豊かな話へと変貌した。

2012-12-14 19:18:25
@miohiroko

1345[赤穂事件]更に幕末になると、もう討ち入りは最初から一にも二にも忠義のため、武士なら死は覚悟の上、主君のためなら命も大切な人も犠牲をいとわない、それが武士道であるという所にまで行ってしまった。それはともかく、史実としての討ち入りは忠義という視点で理解すると本質を見誤る。

2012-12-14 19:24:27
@miohiroko

1346[赤穂事件]討ち入り直後に庶民が称賛したのは、忠義とか武士の鑑ということではなく、純粋に「なかなかできることではないことをした」というものだったようだ。事実、たくさんの藩が取り潰されながら、同じように討ち入りをした所は無いのだから。

2012-12-14 19:30:08
@miohiroko

1347[赤穂事件]なお、討ち入りをしたのは、それによって就職活動をするためだ、などといった嫌みな悪評が当時から起こっている。しかし、それこそ武士を知らない者の言いがかり。許可を得ていない報復の上に江戸市中を騒乱させたら、間違いなく死罪である。死を覚悟した行為は書簡からもわかる。

2012-12-14 19:33:49
@miohiroko

1348[赤穂事件]敵討ち全104件のうち、主君のために行動したのは僅か2例。しかも大集団は赤穂事件ただ1つ。あとに続くものはなく、完全に特殊なものである。もしこれが忠義であり武士として当然というなら、もっとこの挙に出た者がいてもおかしくないが、それがなかった。

2012-12-14 19:37:57
@miohiroko

1349[赤穂事件]幕府としてはこのような事が続いては迷惑だし、武士たちもまた忠義といっても生活もあるし、実戦経験のない者たちばかりの世では尻ごみする。しかし、庶民は厳しかった。みろ、赤穂のおさむらいこそ忠義だ、偉いものだ、とどんどん理想化し、歌舞伎などでふくらませた。

2012-12-14 19:40:51
@miohiroko

1350[赤穂事件]大石は昼行燈と言われたが、実際は偉いじゃないか、ほかのご家来衆も立派だ、それもこれも赤穂のお殿さまが清廉だったからよ、それにつけても吉良というのは強欲で許せねえ、米沢も助けに来ないとは薄情だ藩祖謙信公が哀れだ、と、善悪が完全に分かれてしまった。

2012-12-14 19:44:24
@miohiroko

1351[赤穂事件]理想化された点では水戸黄門も同じだし、大岡越前、さらには坂本竜馬も次第に理想化が激しくなっている。ここで重要なのは、庶民の受け止め方がいいかげんという事ではない。理想化されるにはそれだけの資質があり、認めているからである。

2012-12-14 19:46:46
@miohiroko

1351[赤穂事件]しかし、あまり理想化してしまうと、本質が見えなくなるし、間違ったとらえ方もしてしまう。現代はマスコミが政治家を持ちあげたり理想化する行為が目に余るが、選挙ではそれに釣り込まれず、冷静に人物を見たいもの。以上。

2012-12-14 19:49:05
@miohiroko

[赤穂事件]とりあえず本質論は終わりです。繰り返しますが、浪士それぞれのことやいろんな出来事など、くわしい紹介は改めていずれ取上げます。

2012-12-14 19:50:38

追加

ut_ken @ut_ken

大雑把に言うと「国家の法と、主君や家への忠義や名誉意識、どちらが優先されるか」という矛盾。まだ国家の法=常識的正義では無い時代ですし、 @kyouji0716 @Jiraygyo @yamajun1 @xiaoke_As @Inabaku

2012-12-28 00:06:24
ut_ken @ut_ken

「法より、目の前の忠義や名誉を優先する方が当然である」というのが常識だった。@kyouji0716 @Jiraygyo @yamajun1 @xiaoke_As @Inabaku

2012-12-28 00:06:43
ut_ken @ut_ken

このあたり幕府の公式見解的に林鳳岡が「主君への忠義は貫徹しないといけないが、法を破った責任をとって死罪になるのも必然である」という、矛盾しているが @kyouji0716 @Jiraygyo @yamajun1 @xiaoke_As @Inabaku

2012-12-28 00:07:29
ut_ken @ut_ken

、あの当時の価値観で赤穂浪士の立場におかれたら確かにそうなるということを述べています。 @kyouji0716 @Jiraygyo @yamajun1 @xiaoke_As @Inabaku

2012-12-28 00:07:37
ut_ken @ut_ken

赤穂浪士の急進派の堀部安兵衛も、「後先考えずにさっさと討ち入りすべき」「吉良が寿命で死んだらどうにもならない」「成功失敗に関わらず討ち入り行為自体で面子がたつ」という主張をしていましたね@kanekoiroha @nonomaru116

2012-12-28 00:13:17
ut_ken @ut_ken

吉良の跡取りの吉良左兵衛は討ち入り時の対応が悪いという理由で処罰されているのに「左兵衛本人は重傷を負うほど闘ったのに理不尽だ」といわれますけど、あれも左兵衛一人でなくて、討ち入りの間100人以上も長屋に閉じこもりっぱなしだった、家単位での対応のことでしょうね@Jiraygyo

2012-12-28 00:25:58
ut_ken @ut_ken

現代的価値観では被害者そのものですけど、あの当時の価値観でなら儀式が仕事の高家とはいえ武士なのにこの体たらく、とういうこと。逆に赤穂浪士側の「襲撃」さらにその後の自首までの段取りは完璧そのもの @Jiraygyo

2012-12-28 00:26:41
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